2017年2月

作業用ブーツと新しい長靴 (2月28日・火)


きつい作業を日曜にしたから今日あたり筋肉痛で起き上がれないかと覚悟していたのだが何ともない。その前週にも似た作業をしていたので身体が慣れていたのか。唯一の影響は右足中指の付け根あたりが痛いこと。どうも靴擦れを起こしたらしい。

今回の作業では消防団で配布されたブーツを履いた。作業用の長靴は穴が空いたので捨てていて次の長靴をまだ買ってなかったのだ。消防団のブーツは一昨年だかに新しいものが配布されたので古いものは一般転用しても構わないだろうと今回使ってみた。

ショートブーツだが足先に鉄板が入っている安全靴になっていて作業をするには向いていると思ったわけだが履き慣れていないのと冬に靴下を重ねる出初め式の用途を意識して少し大きめのものだったのが良くなかったのかも知れない。でも1週間経たずに直るだろう。

でも長靴がないのは不便である。草刈りシーズンには買わないといけないと思っていたが少し早めに昨日コメリで買って来た。一番小さな24.5cm。上勝に移住して長靴はこれで3足目。作業用の革手袋も買おうと思いつつ次の作業は2週間後だから近くコーナンにでも行こうと思っているところ。

MBS SONG TOWNと日本のポップス (2月27日・月)


木曜深夜に三戸なつめと角淳一が司会をしている毎日放送(MBS)の番組「MBS SONG TOWN」をときどき見る。複数のゲストがいてテーマを設定して音楽について語り合うという内容。先週はSCANDALという4人組ガールズバンドがゲストでスキャンダラスな曲を紹介し合うという内容だった。

スキャンダルということでMISIA「Everything」など不倫を思わせる曲が選ばれていた。石川さゆりが歌う「津軽海峡冬景色」なども。意表を突く選曲があって面白かった。そんな中で思ったのが私は日本の名曲についてあまりにも知識がないということだった。

「Everything」も「津軽海峡冬景色」も曲は知っている。でも歌詞まではよく知らない。全く知らない曲もあったし最近のものだと歌手さえ分からない。中学からビートルズにはまりディープパープルやビリージョエルに高校からはピンク・フロイドなど洋楽ばかり聴いてきた。

1988年にJ社に入ってからは音楽番組を観る余裕もなく通勤時間3分の車の中で聴くFM放送ぐらいが情報源だった。だから約30年の日本の曲がよく分からない。今になって同時代の曲を聴いてこなかったことがもったいないように思ってしまう。せめて角淳一の番組でも観て追憶しようかと。

出役で急斜面 (2月26日・日)


土曜は葬儀の後すぐS神歯科。そこからこはくの天使で遅い昼食。夜はインスタントラーメンを食べたところでT氏から電話があり21時S嬢のお迎えでS氏と3人で山奥にあるBar IRORI。Jターン農業男子T木君と知らない男性がいた。カウンターにはS嬢とテニス大会で初めて会ったH嬢。

帰宅したのは24時を回っていたのに500mLの淡麗グリーンラベルを開けてしまい寝たのは2時を回っていた。7:20の目覚ましで起きられず11時半頃いっきゅう茶屋でカレーを食べてから出役に。Y氏の誘導に従って車を初めての道に入れて駐車。上がり口が分からずウロウロしたり。

先週に続いて竹切り。初めて行った場所で切られた竹を粉砕機がある斜面下まで下ろす作業。バラの茎が絡まり棘でケガをするからと日浦A氏が手袋を貸してくれた。斜面に上って作業をするが足下がすぐ滑るし安定せずきつい。ジャンパーは脱いでパッチを穿いてきたことを後悔しつつ。

積まれた竹は枝が絡まって動かない。そこから1本ずつ抜いて下に送る。急斜面だから積まれた数百本の竹の上で右肩から一回転したり足が滑って尻餅をついたり。普段使わない筋肉を使って健康維持だと思えば安上がりで効果絶大である。再来週も行って鍛えてこようと思っている。

湯浅真人さんの告別式 (2月25日・土)


11:15出発でベルモニー会館末広に着いたのは12:05ぐらい。受付の列に並ぼうとすると徳島北高出身で一時「響」にいたK木君が挨拶してくれた。祭壇の前に40人。後ろの和室に私を含め15人。焼香になって気づいたのだが祭壇の横の部屋に多くの人がいて全部で120人ぐらいいただろうか。

従兄弟もいた。今は城北高校の教師で徳島県吹奏楽連盟事務局長。自身も吹奏楽のカルテットやビッグバンドを組んで演奏活動をしている。聞けば鳴門高校で湯浅先生が初めて吹奏楽を指導したときの最初の生徒だったんだとか。あのオッサンがいたから今まで吹奏楽をやってるんよと。

見かけたのは市高の同級でハローワーク勤務のO浦や1つ下の医師W氏に徳島北高校で湯浅さんの後任M嬢。3つ先輩E氏の奥様S子さん。連絡をくれた城南高校A氏。教え子だろう20歳代の女性が多い。県合唱連盟前理事長吉森氏が来ていたのは驚いた。同級の産婦人科医Iから電報。

受付で渡された歌詞のコピーは市高の校歌と故川人昭夫先生作曲の市高賛歌。CDの再生がトラブった後に皆で歌った。歌声が聞こえる左後ろの女性も湯浅さんの教え子で市高OGなのだろう。私も歌ったが途中で声が震えて何度か詰まった。これを歌ったのは川人先生の葬儀以来だと思う。

プレミアムフライデー (2月24日・金)


プレミアムフライデーなのである。この日記を将来読み返したとき説明なく理解できるだろうか。あるいは何だろうと疑問に思うだろうか。要は消費を喚起するために政府と経済団体が音頭を取って月末の金曜は15時で仕事を終えようという呼びかけのことだ。

これを理由に帰るならいいことだと思う。本当に忙しい人の中には無視する人もいるだろうし金曜は早く帰って土曜に休日出勤する人もいるだろう。だからと言って私は否定的には捉えていない。お上から言われないと行動できない国民性である。いろんな試みをやればいいと思う。

そう言えば1990年代の前半に広報チームのメンバーに「せめてニュースステーションに間に合う時間に帰りたいよね」と話した記憶がある。通勤時間は5分程度だったから要は22時前には退社したいという意味だ。23時や24時になって会社を出る日々だった。

それでも19時始まりの宴会に間に合うよう退社したときもあった。その代わり土曜に会社に行っていたと思うがやればできた。ただ当時は携帯電話がなかったのは幸せだった。今だと早く会社を出ても携帯電話で追いかけられる。私は自営業だからそれも平気だが嫌な時代だとは思う。

湯浅真人さん (2月23日・木)


湯浅真人さんが亡くなったという連絡を城南高校の地学教師で「響」の仲間A氏から受けた。湯浅さんは我が市高合唱部の5つぐらい上の先輩だが3月の定期演奏会前など毎日のように練習に来ていたのでよく知っている。膵臓癌と言ったか。危ないとは昨年のテルの通夜後に聞いてはいた。

年内持たないかも知れないと聞いたのが11月末。先日のアンサンブルコンテストの後に飲んだとき後輩で医師のW氏が見舞いに行ったと言っていた。湯浅さんの生活は何も知らなかったのだが数年前には離婚もされていたらしい。長年に渡り鬱病で3年前には教師も辞めていた。

その年のコンクール県大会で会ったとき当時は55歳ぐらいのはずなのに70歳ほどの老人に見えて驚いた記憶がある。大学時代も痩せていたが小さくなっていた。徳島北高合唱部で湯浅さんの後任に当たる旧姓M田嬢は湯浅さんを指導に招いているとも聞いていたが。

私の高校時代は故・川人昭夫先生と同じような髪型とウィンドブレーカーでそれがトレードマークのようなものだった。私が高校3年の定期演奏会ではOBも歌っていただろう。あの場にいた指揮者の川人先生とテナーの湯浅さんにベースの森泰人さんとテルの4人が亡くなったということか。

海外販路開拓セミナー (2月22日・水)


仕事で海外とのやり取りが発生しそうで契約書まで作っているのだが何をどうしていいのかよく分からない。そんなタイミングで上勝町商工会から案内が来て何となく基礎的なことを勉強しようと行ってみた。阿波観光ホテルでの「失敗しないための販路開拓〜興味ありからのステップ〜」。

主催は徳島県商工会連合会。講師は東中ビジコン太田光雄氏。内容は盛りだくさんな3時間。貿易に関する条約の解説から国際貿易のコンテナや港の説明。そして詳しく説明されたのが初めて聞いた「インコタームズ(INCOTERMS=国際通商用語:International Commercial Terms)」。

FASとかCIPやDATなど荷物の受け渡し場所や保険の有無を表す3文字のコードのことだ。出荷工場または輸出側港や相手国港なども示すのでこれで売り手と買い手の責任範囲が明確になるらしい。さらに契約成立の要件や国際決済の方法に保険の解説さらに考えられるリスクの話も。

繰り返し強調されたのは中小企業の貿易では徹底的にリスクの排除に努めるべきということ。さらに貿易知識なく海外の見本市や商談会に行っても無駄だということ。相手もリスクを避けようと貿易用語が通用しない相手とはビジネスをしないと。初めて聞くことも多く面白く勉強になった。

USAで作戦会議 (2月21日・火)


日曜に団長らと3人で行ったUSAは沖浜を国道から文理大学に向けて曲がって左にある。J社時代はときどき利用したと思うが忘れられないのは1991年冬のこと。その年の4月に入社して私の部署に配属されたA子さん(仮名)が会社に来なくなり九州の実家に帰ってしまっていたときのことだ。

彼女に何があったのか未だに聞いていないが激しく落ち込むことがあったのだろう。1年目の秋頃から休んでいたと思う。私は1988年入社。6月から社長室勤務で1990年早々に別部署にいたN嬢をスカウトして部下に取り込みチームを作って広報の仕事を始めて2年も経っていなかった。

彼女が休職して1〜2ヶ月が経った頃に連れ戻す対策会議を開いたのがUSAだった。私と部下N嬢とA子さんの同期で仲が良かったM嬢の3人で集まった。原因をM嬢に訊いたがよく知らなかったのではないか。いずれにしても手紙を出そうということになりM嬢から送ってもらったように思う。

記憶では私の右に窓がある席だった。その後1月もせず彼女は復帰したと思う。1992年2月16日にあった私の最初の結婚式には彼女も出席しているから1991年12月頃だと推測しているのだが当のA子さんも覚えていないらしい。今ではUSAと聞くと25年前のこの思い出が第一に浮かぶ。

昼間の「響」練習とCAFE CASUAL USA (2月20日・月)


土曜は陰切りの出役とアンサンブルコンテストの出演にS氏W氏と3人でミニ打ち上げをやって寝たのが3時を回っていた。日曜に起きたのは11時半でこの日も「響」。相生森林美術館での演奏が3月26日(日)にあり5月3日(水・祝)の定期演奏会も迫っている。余裕がないのだ。

そんな状況なのに指揮者Sが所属する徳島市歯科医師会の理事長選挙があるらしく諸々の活動に時間を取られ普段は夜の練習がこの日は午後になった。13時から3時間。定期演奏会で歌う黒人霊歌の男声合唱5曲について音取り。2ヶ月半前にこんな状況で大丈夫なのだろうか。

終えて団長と沖浜の喫茶USA。今はCAFE CASUAL USAというらしい。ある友人を団長に引き合わせたのだが場所はUSAがいいと団長に言われまだあったのかと驚いた次第。しょっちゅう前を通ってはいたのだが。J社にいた頃はときどき行っていたと思う。店内は当時とあまり変わっていない。

16:10待ち合わせで17時半頃解散。2人の話を私は聞いただけだがいろいろ知らなかったことが多くて驚いたり感動したり。皆と別れ夕食にいつものこはくの天使に行ったら15時までと。Facebookを見たらマスターは大阪に遊びに言っている様子。仕方がないから羽ノ浦で担々麺食べてきた。

アンサンブルコンテストとミニ打ち上げ (2月19日・日)


出役を終えた土曜は午後からフィットであわぎんホール。徳島県合唱アンサンブルコンテストだ。車の中で発声練習をしたのだが無理して出していたら喉を少し痛めたかも知れない。更衣室で歌ってみたが今ひとつ。直前練習で歌詞を間違えたら指揮者が私を指さしてはやし立てる。

舞台袖でスクワットしたり身体を動かして本番ではまずまずの声が出た。1曲目は男声6部で私一人しかいないパートなのに音が分からなくなって2小節ぐらい無音にしてしまった。これが最大の失敗。ほかはまずまず。3曲目は割と気持ちよく歌った。後から金賞・ベストハーモニー賞を受賞と聞く。

終えて着替えを済ませたところで朝の労働のツケが来て眠たくて仕方がない。ホールに入り音楽を聴いたら寝入っていびきをかきそうなのでロビーのソファ。元「響」の仲間で今や徳島大学工学部長の河村先生やトップのS津さんらも来ていてご挨拶。Serenitatis Ensembleの演奏前にホールへ。

最後の5団体ほどの演奏を聴き2週間前にお世話になった僧侶S氏とS神歯科に車を駐めて駅前に。医師W氏お奨めの店は諦め「ひら井」。3Fの宴会中の隣。20時過ぎにW氏が合流し2軒目はダイヤロイネットホテル2F「HIDEKURA」。代行待ちでバーCOPA。小松島の代行で2時前に帰宅。

陰切り (2月18日・土)


金曜は24時過ぎに寝て今日は7時起き。8時から陰切りの出役である。要は日陰の原因になっている木を伐採するのだがまずはチェーンソーを持った人が次々と竹を伐採。短くして落ちてきたものを粉砕器まで運ぶ。それなりの労働で暑くなって1枚脱いで9:35に一旦休憩。

メンバーは消防団前副団長N氏に前建設課長N氏と私が入団したときの消防分団長O氏と現分団長K氏がチェーンソー組だったか。さらに町会議員H氏と蔭井谷K氏と日浦A氏。女性は和美さんキミちゃんフサちゃんと名前が分からない人が2人だったと思う。私を入れて13人いたはず。

休憩でパンの耳を揚げたものと缶コーヒーをいただく。そこからは大きな木を伐採する消防分団長K氏のアシスタントみたいになって荷物を運んだりワイヤーを巻いたり。まともに倒れると電線に触れるような位置にある木にワイヤーを掛け根元に切れ目を入れてから巻き上げて倒す。

きつい斜面を上がったり下りたり。K氏を見ていると危険を回避するため作業中の立ち位置にも気を付けているのがよく分かる。初めて見るような道具もあって山の仕事の一端を垣間見て面白かった。とは言いつつ3時間半ほどの作業でクタクタである。いっきゅう茶屋で昼食。午後は徳島へ。

お向かいの新型インプレッサとニコン (2月17日・金)


記録として書いておこう。13日(月)夕方に駐車場に出ると向かいのY氏宅に見慣れない車が駐まっていた。エンブレムはスバル。カーオブザイヤーを受賞した新型インプレッサが納車されたのだ。そのタイミングでスバル阿南店から携帯電話に着信があったことを後で発見。用件は分かる。

夕食終わりに再び電話があって担当営業と話をした。今日納車したという報告と礼。紹介料を支払う段取りをしていると言う。お向かいさんとは昨年9月以来フォレスターのことやスバル販売店のことや商談のこと値引きのことで何度も立ち話をした。昨日もナビのアップデートについて立ち話。

一方で同じ日にニコンの高級コンパクトデジカメDLシリーズの発売中止というニュースを見た。画像処理用ICの不具合で昨年6月発売予定を延期してから開発費の増大と販売数量の低下を見込み中止することにしたという。スペックは私が求めていたものに合致していたので残念だが仕方ない。

いずれにしても私が買うことはなかった。昨年10月時点で発売されず結局ソニーDSC-RX100M5買ったので。それより希望退職者募集といったニュースもあって心配している。私にプログレッシブロックと夜中の峠道ドライブを教えてくれたBPQが今は関連会社にいるはずなのだが。

第九演奏会への意見 (2月16日・木)


第九演奏会について月曜の夜に思いつくままツイッターに書いた。ここに書いたこともあるし別のこともあるから改めて記録しておく。まず第一は指揮が分かりにくかったことだ。それなりに有名らしいが76歳。プロを相手にするのならいいが合唱団の2,000人はほぼ素人ばかり。

第九は歌ってみて分かったが第4楽章の中だけでテンポが何度も変わる。4/4も6/8もあるし二分音符が84だったり60だったり。付点四分音符が64だったり。ドイツ語の歌詞に必死な私などはテンポの変化に付いていけない。それを分かりやすく導くのが指揮者だが76歳はほとんど何もしない。

県合唱連盟新居理事長が当日の発声練習を指導したが途中からマイクを持たなくなって指示が聞こえない。楽譜の持ち方も事前にあった指示を知らなかった様子。プログラムには県内合唱指導として17人も名前が載っているが一貫性がない。誰か統括する音楽監督が必要だと感じた。

それと私が感動した演出担当の名前がプログラムにない。管弦楽も個人名がない。いくらサプライズとはいえアーティストだと紹介した初音ミクの名がないのもバランスを欠いている。合唱団2,000人の名前を載せるなら音響や映像に照明を含め関わった全スタッフの名前を載せて欲しかった。

福岡の弁護士さん (2月15日・水)


妻と経営している今の会社で海外取引の話がある。相手は個人。これまで国内で2人か3人だけ個人相手に契約書を締結する必要があったが難しい問題はなかったから私が書いて提示した。それ以外の企業相手の取引では相手はそれなりに大きく契約書は私たちが提示される立場だった。

ところが今回の相手は個人とはいえ海外。諸々のリスクもあるだろうと契約書は書いたものの弁護士に確認してもらおうと考えた。ただし徳島の弁護士事務所を検索すると取り扱いジャンルは離婚問題や交通事故対応のようなものばかり。ビジネス案件が得意そうな弁護士事務所はない。

東京には知人の弁護士さんが何人かいるが皆さんの専門は著作権。今回は著作権も絡むが基本的に海外との契約なので今ひとつ。そこで思いついたのが福岡時代にD社でお世話になった弁護士さんのこと。18年前から2〜3年だったか。今は海外取引をテーマに大学でも教えているらしい。

そこで問い合わせフォームから連絡したのが先週金曜。出張中だったとかで日曜夜に返信があってから毎日メールでやり取りをしている。今日は電話。懐かしい声と話し方だ。いろんな経験が今になって役立っていて楽しい。いつか福岡で先生に会ってこようと思っている。

第九演奏会の運営 (2月14日・火)


今回の徳島県主催の第九演奏会は合唱だけで2,000人。これに管弦楽が加わり観客が1,300人と紹介された。これだけのイベントを運営するのは大変だったと思う。練習会場の手配や本番のシャトルバス運営に2,100人分の弁当の手配などどれ一つ取っても入念な準備が必要なものばかりだ。

初音ミクが登場した演出もそれなりに大変だったと思う。前後2面の大スクリーンに演奏中に流した映像の制作や演奏者を映すカメラ。初音ミクに歌わすために開発会社クリプトン・フューチャー・メディアが来ていたようだし音響や映像や照明それぞれと連携を生む詳細な台本。

リハーサルやゲネプロでそれらを指揮しマイクを持って説明した演出家は優秀だったと思う。何が良かったって急な変更や時間が押しても説明する言葉はゆっくり丁寧だった。頭をフル回転させながら全体を落ち着かせ2,000人の素人合唱団に分かりやすく話す姿勢には感動すらした。

敢えて問題を挙げれば弁当の配布に時間が掛かったこと。初音ミクの登場は本番当日まで秘密だったしいが前日リハーサルでその説明がなかったこと。私はFacebookに上げたし本番朝になって説明したって遅い。それでも全体的によく練られていたと思う。お金を掛けたこともよく分かる。

第九の演奏 (2月13日・月)


昨日の第九演奏会で私はテナーの一番後ろ右寄りの席だった。通路を挟んで後ろの2階席はソプラノだったのに本番になると通路に椅子が置かれてテナー席となった。これまでの練習で隣合わせになる人は誰もがいい加減な音を出していたのに昨日の両隣は私よりも上手かった。

右のA氏はもう62歳だが関西大グリークラブ出身で「響」でのトップテナーを張ってきた。アスティ徳島のこけら落としや鳴門文化会館でこれまで第九を歌ってきたと言う。左隣の青年I氏は聞けば高校教師で今は県教委勤務。オーケストラ部出身で県外の第九演奏会で歌ったことがあるらしい。

私はと言えば練習で隣になる皆がいい加減なのをいいことに甘えていた。せめてドイツ語と音は暗譜しておかないと頻繁に変化するリズムと強弱に付いていけない。一方で音楽以前の問題として団長の周りでは1オクターブ低く歌うオッサンや本番中に大きなくしゃみや雑談した人もいたらしい。

老人会のような合唱団からの参加が多いし県外出演者は観光気分かも知れず県はそれを承知でお祭りにしている面もある。だから「響」でやっているような合唱とは別物と割り切っていいのかも知れない。だからと甘えて私は下手な演奏をしたので満足感が全くない。つまり面白くなかった。

第九演奏会 (2月12日・日)


昨夜は2時過ぎに寝たのに6:20に目が覚めた。7:25出発。出演者は会場のアスティ徳島での駐車が禁じられており沖洲マリンターミナルからシャトルバスに乗る。日曜早朝の道路は順調で8:15にはバスに乗った。前の便が行った直後の一番。大型観光バスは贅沢にも15人ほど乗ったら出発。

シャトルバスの運行が不安で早く行ったが早すぎた。ロビーで会った20年前のミュージカル仲間ソプラノのH嬢と雑談。城東高校出身6歳下らしい。9時半から初音ミクと映像音声のリハーサル。9:50から高校の先輩で県合唱連盟理事長N氏による発声練習。10時半からゲネプロ。

と言っても1楽章と2楽章は一部だけ。指揮者は平気で演奏を止めオケに指示。3楽章は全曲演奏だが私はウトウト。4楽章の合唱も指揮者は細かな指示。弁当受け取りの列に並んだのは12時半。3カ所に2,000人が並ぶので大変な行列。昼食は団長とT氏と控え室で膝の上に載せて食べた。

ロビーでコーヒーを飲んでいてZ嬢を見つけた。そこに中学の同級F氏引率のJ高校が昼食から戻ってきてCちゃんと顔を合わせられた。肝心の本番演奏はいい加減。16時前に終わりバスで沖洲に戻り車の中で着替えて17時から「響」の練習。第九に気を取られ「響」の楽譜を忘れてくる失態。

第九演奏会リハーサル (2月11日・土)


昨夜は20時に近所のF氏が来てS氏も一緒に妻と4人でミニ宴会。水曜の分団詰め所漏水事件の経緯を知る。22時半頃に解散。今日は11:15頃に出てアスティ徳島。明日のベートーベン第九演奏会のリハーサルなのだ。展示会用ホールの全ての椅子を出し本来の客席に演奏者が座る。

駐車場の混雑を想定してパンを食べながら12時過ぎに着いたのに開場は12時半だと。結局45分頃に着席。左隣は県教委勤務という20歳代らしき人。右隣は響の仲間でもある阿波銀から出向している徳島市医師会事務局長。プログラムを見ると大阪や兵庫からは各200人が歌うらしい。

友人Z嬢の娘CちゃんがJ中学の一員としてソプラノにいると言うから探したが分からない。引率の中学のクラスメートF氏に聞いても分からない。練習は前半は合唱だけ。後半にオーケストラが入って起立のタイミングやアンコールの段取りなどを練習した。今日は調子よくハ調のソまで平気。

アンコールで「Special Guest降臨!」とスクリーンに出たと思ったら初音ミクが浮かび上がる演出。第九の替え歌の前半をミクが歌い後半は合唱。夜は消防分団役員会だがF氏とS氏から今日の徳島新聞に私の名前が載っていたと聞く。2,000人の名前を見開きで掲載していたと帰宅して確認。

ミニスカI嬢 3 (2月10日・金)


泥酔した彼女に呼び出されたときは遅れてI君も来た。そのI君とI嬢は後に結婚。その2人から結婚の相談をされたこともある。当時I君はI嬢の上司と付き合っていた。その上司と別れてI嬢と結婚することに私は賛成だと言った。あれは秋田町東にあったBarトリンタの入口脇のテーブル席だ。

会社を辞めて東京に戻っていたI嬢がなぜか徳島に来て私に連絡をしてきたこともある。でも突然やって来ても私にも仕事がある。待ち合わせ場所だけ伝えて数時間は待たせたような気がする。彼女と合流して食事をして飲みに行ったのだろう。2人して泥酔したのかここの記憶はないのだが。

でも足もなく泊まるところもないと言うから雑賀町あたりのラブホテルに2人で泊まり寝たのが多分3時とか4時。9時半始業なのに起きたら10時半頃で会社に電話をしたところは覚えている。このときだと思うが私が会社に行っている間は南昭和町5丁目にあった1DKの私の部屋を彼女に使わせた。

その日だったのかさらに翌日だったか覚えていないがメモ用紙に置き手紙を残し彼女は消えていた。それが最後。I君と結婚して横浜にいると聞いたのがその後すぐでちょうど20年前のことだ。彼女が会社に在籍したのは1996年の1年に満たなかったはずだがI君ともどもどきどき思い出す。

ミニスカI嬢 2 (2月9日・木)


I嬢の続きだが彼女を私から誘ったことは1度だけだと思う。サッカーの欧州と南米の1位が戦うトヨタカップのチケットが会社にあって行った。国立競技場の試合そっちのけでビールを飲み話をした。渋谷で食事した後バーに誘われたが断り五反田のホテルに帰ったのは1996年11月26日のこと。

彼女は東京にいたのだから既に退職していたのだろう。だから話が盛り上がったような。それ以前の1996年夏頃は何度か会った。なぜか彼女は会社近くの自分の部屋に誘う。だいたい平日で5〜6回は行ったか。エアコンもあったのに声が聞こえることも気にせずいつも窓を開けたままだった。

佐那河内の大川原高原に行ったこともある。土曜日だったと思う。誘われたとき私は既に飲んでいたのだろう。350mLのキリンラガービールだかを車に載せて飲みながら車を運転した。もし警察に停められたら自分が飲んでいて迎えに来てもらったと答えるようにと彼女には言っておいた。

頂上まで行って少し下った広場に車を駐めた。風車建設の資材置き場になるところだと思う。寒くなかったからあれも夏かせいぜい9月頃か。私の部下を含む20歳代の女性ばかり数人がいるところに泥酔した彼女から電話で呼び出されたときは参ったが。あれは彼女が退職前の秋だと思う。

テレビの不調と賢見神社 (2月8日・水)


妻の希望で徳島の最西部の三好市にある賢見神社に行って来た。ここは「犬神憑きを落とす日本随一の神社」とされ西日本を中心に関東あたりからも参拝客が訪れるらしい。初めて行ったのは8年前同じ年に再び行っていて私は3回目だと思う。妻は5回目か6回目になるはずだ。

先々週に急きょ東京に行ったのはOutlookを新しくしてメールデータがなくなったのを復旧するためだったがそもそもOfficeが使えなくなったというのが変な話。その際スマホの調子も悪いと妻が言っていた。そして昨日19時のニュースを見ようとテレビを付けたら画面も音声も来なかったのだ。

HDRを再生すると見られるがテレビは映らず音声も聞こえない。チャンネルは変わるがBSにするとTBSに固定。リモコン操作を諦め本体のスイッチを使うと復旧した。以後リモコンでも問題なく使えている。これをもって霊障か何かよからぬ兆候ではないかと妻が言い出したのである。

13:20出発。クリーニングとSAで各5分。16:35着。125km。フィットで行ったが駐車場は十分だった。初穂料は奮発して1人5,000円。妻はお守りも。帰りに助任のすいえんで担々麺と餃子。お札を自宅に貼りお守りはバッグへ。夜分団長から電話がありS氏と一緒に消防詰め所の水の対処。

怖い話 (2月7日・火)


実家で泊まった土曜の夜に甥を寝かせ付ける役を弟が私にやって欲しいと言う。甥の相手ばかりで疲れる気持ちも分かるので妻と一緒に甥を寝かせた。本を読んだのは妻なのだが最初は「野球場の一日」という絵本。続いてディズニーおはなしえほん「101ぴきわんちゃん」。

それでも寝ない甥は「怖い話をして」と言う。妻がペチャペチャというお化けが追いかけてくる話や祖父が狸に騙されて川の中を歩いていた実話などをする。私は「ペチャペチャ」と効果音。その夜は部屋を暗くしてから寝てくれたと思うが日曜夕方また「怖い話をして」と言う。

思い返せば私も幼稚園から小学校の時代というのは怖い話をよく聞いたような気がする。子ども雑誌にも載っていたようにも思うしテレビでもやっていたのかも知れない。興味があるから好んで読んだり聞いていたのだろうか。怖いから嫌なのだけどなぜか惹かれる怖い話。

鳴門スカイラインの幽霊が出るドライブインとか上勝に伝わる狼に喰われたおもんさんの話などは思いつくが6歳に話をして怖がらせられるかどうか。6歳が怖がる話とはどんなことなのだろう。そんなわけで甥のために怖い話を何か仕入れておこうと思っている私たち夫婦なのである。

甥6歳と伯父バカ叔母バカ (2月6日・月)


金曜夜から日曜夜まで一緒にいた甥6歳は今年から小学生。先天性の難病とその影響で彼の人生6年2ヶ月のうち計2年間ぐらいを病院で暮らしてきた。これからも毎日薬を飲み続けなければならない人生はかわいそうだが生体肝移植まで受けたのだから生きているだけで十分だと思う。

とは言っても今は普通のガキなのである。言葉も運動も同年代の子と何ら変わらない。だから欲が出る。室内でボール遊びをして素手でキャッチするのを見ると上の子が小学校直前のときと比べて負けてないと思う。でも勉強は苦手でカタカナは読めずおねしょもしているらしい。

しゃべれない頃の記憶を後に言葉で聞いたときには感動した。そして実は天才ではないかと考えてしまう伯父バカ。彼の父である私の弟がFacebookにアップした甥の絵を見て彼は芸術の才能があると言い切る妻は叔母バカ全開。CMソングを歌っただけで音楽の才能があるとか言い出す始末。

ソファで甥が妻や私にもたれかかってくると可愛くて堪らない。コーヒーを飲もうと手動のコーヒーミルを使うと甥がやりたがり昨日はとうとう最初から最後まで豆を挽いた。意欲もあるしヒントを与えれば自分で工夫して行動する。でも勉強は嫌い。やっぱりそれでも十分ではないかと思ったり。

いちご狩り (2月5日・日)


目覚まし8時半だったが起きだしたのは9時半前。10:40頃に出発して小雨の中を車で10分弱のフルーツガーデンやまがたへ。いちご狩りなのだ。弟と甥は昨年だか一昨年に行っているが私は初めての体験。ハウスを行ったり来たりしながら1時間で3種類のイチゴを取っては食べる。

テーブル席で食べることもできる。そのときの写真がブログに載っている。1万円掛かったとかで後から妻が弟に4,500円支払い。今日は小雨で寒く手が濡れるから冷たいしそんなに食べられるものでもない。と言いつつ私は多分30個ぐらい食べたと思う。母と妻もいたので5人で140個ほどか。

寒くて私は一足先に車。12時過ぎに出て大谷焼の工房。皿に絵付けをするとかで弟と甥が申し込み私は妻と母と実家に帰宅。昼食に行こうとしたら弟らも帰り再び5人2台で妻が調べた小さなカフェへ。金比羅前駅近くのガーデンイール。おじさん1人の店で時間は掛かったが美味しかった。

弟と甥が先に帰り妻と母がマイケルで買い物。私は運転手。夜は18時半頃からすき焼きだが昼食が15時だったのでほとんど食べられず。そして甥に小学校入学祝い。甥その1のときの日記を参考に同額の妻と2人で2万円。コーヒーミルを忘れてUターンしたりして上勝着21時過ぎ。

法事と土柱 (2月4日・土)


目覚まし8時半でコーヒーを飲んで着替え9時半前に出発。母と弟と甥と妻と5人2台で阿波市。10:20頃に明王院に着いたら時間が早く弟と甥が土手の方に行ってしまい妻も追いかけて。山門前で5人で写真を撮り本堂へ。ほどなく「響」の仲間でもある副住職S氏が来て亡父の十三回忌法要なのだ。

11時始まり予定で後半はお経も読んで。母は椅子に座り6歳の甥はまずまず大人しかった。ファンヒーターもあったが今日は暖かくて助かった。お寺を出たのは11:50頃。甥が見たいと行ったらしく土柱へ。中学2年の頃に遠足で行ったようなのだがショボさに驚いて以来バカにしていたのだが。

この奇観は意外だった。40年前には理解できなかったのか浸食が進んでワイルドになったのか。弟と甥は土柱の上まで行って写真を撮って。続いて土成たらいうどん。いつもの平谷屋。焼き鳥2人前に沢ガニ1皿と鮎2匹にたらいうどん3人前。意外にペロリと食べられた。

弟と母は墓に行ったが私らはワイパー交換にイエローハット。でも卒塔婆があったので遅れて墓へ。帰宅して居眠りして18時半過ぎて夕食。魚大将は今ひとつ。ローソンで下ろしてもらいビールを買って帰宅。甥を寝させるのに妻が読み聞かせと作り話して21:50。今夜もビール3杯と焼酎お湯割り。

鳴門 (2月3日・金)


明日は父の十三回忌の法事である。阿波市まで行くのだが弟と甥も来るので今夜は鳴門に泊まることにした。ANA最終便20:35着だと聞いていたのに午後すぐ母から電話があり上の子が風邪で来れなくなり18時着に変更になったと言う。16時半頃に上勝を出たら再び電話があり手違いで最終便と。

結局18時頃に出て夕食は鳴門。国道28号線の実家まで1kmというところに新しくできた南仏料理レストラン。まずまずだがこの立地で客が入るとは思えないのだが。食べ終えてまだ20時前なのでコンビニでビールと焼酎を買い一旦実家によって荷物を置いてから空港へ。

小学3年生の上の子は来ず今年小学生になる下の子だけ。リュックを背負って出てきて工事中のロビーの奥に妻と探検に行ったり。実家に着いてからは豆まきをやったりコマを回したり落ち着かない6歳はうるさいのなんの。幼稚園で作った鬼の面を見た妻が素晴らしい出来だと叔母バカ全開。

さてパナソニック・レッツノートを持ってきたがIIJ回線でネット接続する前にこのページを開けてしまった。つまりメインPCと同期される前に編集を始めてしまい途中でftpでファイルをダウンロードして続きを書いている。こういう経験を重ねて使い勝手を向上させるしかないと思うわけで。

ミニスカI嬢 (2月2日・木)


先週東京で19年ぶりに会ったK氏とI嬢の話になった。1995年12月に中途入社したらしいK氏は96年5月に米国サンフランシスコで行われたJavaOneへの出展を担当していた。彼は開発企画という部署のはずだが創業者で社長の奥さんだった専務の巨大な秘書部門プロ推からも担当が付いた。

それがI嬢だ。確か津田塾あたりを出て東京の銀行から転職してきた当時まだ26歳ぐらいだった彼女はミニスカートで誰にでもため口で話をしていた。友人K野は彼女がノートの表紙に自分の名前を大書きしていて何者かと訝ったと言った。物怖じしない態度とミニスカートは何せ目立っていた。

私は1996年3月頃に知り合ったと思う。終業後18時前に向かいの公園でタバコを吸っていたら彼女がやってきてタバコに火を付けた。で自分から名乗り私の名を訊いた。答えたら「あぁあんたの話はいろいろと聞いてるよ」と彼女は私に言ってタクシーに乗って行ってしまった。何だコイツは。

それから間もなくK氏とリクルート出身の同い年Y氏と3人で徳島県庁前の焼き鳥「大吉」で飲んだときI嬢と誰が最初にやれるかという話をした。Y氏は上勝出身S嬢と結婚して今は福岡にいる。K氏によると当時I嬢の社内メールJOSSの画面には男からの個人メールが山ほどあったらしい(続く)。

発送業務 (2月1日・水)


懸案だった支払調書の送付作業をやった。今回はマイナンバー提供依頼文書と返信用封筒も同封。昨年までなら宛名書きは妻がやっていたのだが彼女は彼女で個人からの入金数十件の領収書発送作業を抱えているので今回は全ての作業を私がやった。16通。

こうした事務作業は不得手ではない。でも好きでもない。頭を使う仕事をしているとたまに単純作業がうれしいときもある。でも例えばA4レターを3つ折りにする作業を1時間続けるなら単純作業とも言えるが今回は16通だけ。単純作業というには中途半端。

本当は妻が抱えている数十通の領収書発送作業とともに先週水曜アルバイトをお願いしていたのである。ところが東京のPCのOfficeが初期化され復旧作業のため急きょ私が東京に行ったためキャンセルしていた。今週の作業をお願いしたかったが風邪とのことで断念。

事務作業は誰かにお願いしないと本来の業務に支障が出てきた。そんなわけで妻はFacebookで募集をして何人かコメントをくれた様子。現在の東京オフィスは義母の住居でもあり都心にシェアオフィスを借りるかといった案も。今年も仕事は落ち着かないのである。

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© 2017 Takashi INAGAKI