2009年3月

車載CDプレーヤー (3月31日・火)


我が12年落ちの軽「ダイハツMOVE」にはFM/AMラジオとカセットデッキが付いていた。CDは聴けない。FMも上勝や勝浦では入りが悪く車の中で音楽を聴くことはほとんどできなかった。「響」の練習への往復でCDが聴けたら音を覚えるのも早いのではないかと何度か思った。

一方で友人の妹で元同僚でもあるM嬢が年末に帰省したときナビが不要になると言っていたらしい。妻がM嬢の実家にお節料理作りでお邪魔したとき話題になったと。それで譲っていただくことになり2月上旬に送ってもらっていた。ナビは部品代が必要だがCDだけなら聴けるからと。

ちょうどその頃知り合ったT氏が自動車修理の仕事をしているというので相談したら取り付けてくれるという話になった。お互い忙しくタイミングが合わなかったのだが昨日になって作業をしてくれた。妻と2人で操作を教えてもらい歓声を上げた。

我が12年落ちの軽には不似合いなほど素晴らしく新車に生まれ変わったような感覚。HDDが内蔵されていて聴いたCDを自動的にHDDに録音する機能もあるらしい。素晴らしい。譲ってくれたMさんと取り付けてくれたT氏に感謝。ありがとうございました。

ネジ打ちと送別会 (3月30日・月)


日曜日は産直市の小屋作りでボランピア。この日は妻も。前回の火曜に参加したとき人が少なく最年少だった私は梁の上に登って作業もした。それで慣れて今回は上で作業。と言ってもネジの打ち込みがうまくできずネジを落としてばかりで後半は長さを測って押さえておくだけ。

妻は溶接箇所の汚れと錆を落としていたからジャンパーに錆が付いて茶色くなっていたが箔が付いたと思っておこう。さて梁に登ったり無理な姿勢で作業をしたせいか今日の私は脚やお尻の筋肉が痛い。車に乗ってばかりで運動不足だからちょうどいい塩梅だ。

夕方からは公民館で宴会。この日は私と同じ住宅に住むS君が実家の和歌山に帰るというので彼の送別会。大学院生だった彼は一昨年のアート作品作りに参加してそのまま住み着いたらしい。私も何度か一緒に飲んだ。真面目でいい子。

送別会には同じ地区の数十人が集まったので初めて会う方に挨拶して回っていたら前に会ったと言われた人がいた。最初に会ったとき既に酔っぱらっていたから記憶が飛んでいたらしい私。すみません。ともかく大声で話し飲んだもので今日はすっかり二日酔い。

90年代の上勝 (3月29日・日)


峠の走り屋だった1990年前後の私は日産S13シルビアで徳島東部の山道を深夜によく徘徊した。でも上勝に来た記憶は薄い。美杉峠を相生側からよく走っていたことを先日思い出したが上勝を深夜に走ったのは徳島への帰りばかりだったような気がする。

ただ日中にはときどき来た。上勝に入って福川トンネルを抜けた2車線道路は私の記憶の中では上勝の県道で最も狭い場所だった。対向車を止まってやり過ごしたし拡幅工事のためだったのかダートだったような気もする。ここを通るのはいつも昼だった。

正木の信号機や手前の橋は当時なかったのではないか。小学校近くの旧道の橋を渡って引き返した記憶があるから。道幅が狭く不安になって実家の夕食に間に合うように先に行くことを諦めたのだと思う。旧道の三叉路の小学校側に電話ボックスがあったような。

月ヶ谷温泉の入口の県道沿いに小さな小屋があり葉っぱを使った商品を売っていた気がする。そこから先はバス停の休憩小屋がやたら新しかった印象が強い。私はいつも役場の手前でUターンした。あれが日中だったということはバイクで来ていたのだろうか。曖昧な記憶。

田舎で働き隊とヤッホー体験 (3月28日・土)


今週の上勝は「田舎で働き隊」という事業で26人の若者が都会から来ていた。2つの企業が別々に募集をしたそうで「いろどり」とNPOゼロウェイストアカデミー(ZWA)が受け入れたらしい。このうちZWAに来た若者たちが田舎での事業について発表するのを聞いてきた。

聞けば発表することを後から言われた人もいたそうだし数日滞在しただけで何が分かるものでもない。発表内容やプレゼン技術はともかく都会の若者の苦悩に自分や日本をどうにかしたいと思う強さは伝わった。この日はそのまま「山の学校」での懇親会にも行って彼らと話をした。

土曜はヤッホー体験に参加。吉野川上流にある山城町でもヤッホーをやっていて彼らが支部と称するための認定式もやっていたそうだが私はヤッホー体験から参加。山城町の方々のマイクロバスに同乗させてもらいヤッホーポイントをいくつか巡ってみんなで「ヤッホーッ」。

山城町の妖怪着ぐるみも登場し徳島新聞の取材付き。途中「ほら吹き」体験も。要はホラ貝を吹いて鳴らしてやまびこを楽しむのだが私は最後に瞬間鳴らせただけだった。ともかく自分の声で自然を感じようというこのイベントはお奨め。これは楽しい。

アンジェラ・アキ「手紙」 (3月27日・金)


シンガーソングライターのアンジェラ・アキを知ったのは2007年春頃だと思う。2006年12月に武道館でコンサートをしているというからその前後だ。それ以来彼女がテレビに出ていると見てしまう。それは彼女が徳島出身だと知ったから。そして歌に聴き入ってしまう。

昨年NHKから委嘱された全国合唱コンクール中学生の部の課題曲「手紙〜拝啓15の君へ」がヒットした。このコンクールに参加する中学生を描いた番組も昨年NHKで見て泣けたが今週もこの曲にまつわる番組をいくつか見た。アンジェラ・アキの女声バックコーラスが素晴らしい。

歌詞を子細に見ると実はさほど凄いと思わないのだが楽曲と合わさった上に作曲に至るエピソードを知っていると必ず泣ける。聞けばNHKから課題曲の作曲を委嘱された数日後に母上から自分が15歳のときに書いた30歳の自分に宛てた手紙が届けられたのだという。

この曲は先々週に事務所で飲んだときN氏のギターでみんなで歌った。水曜に母校の合唱部の練習を見に行ったら定演用にこの曲の練習もしていた。こういう曲が歌えるのなら混声合唱も悪くないなと思う。合唱を身近にしたNHKとアンジェラ・アキに敬意を表したい。

B氏と「田舎で働き隊」 (3月26日・木)


水曜日。夜になり滋賀の大津からB氏。徳島からレンタカーで上勝温泉に来た彼を温泉まで迎えに行き我が事務所で夕食会。B氏が事前に送ってきていた肉と同じく事前に送られてきていた燻製キットを組み立てベランダでチップに火を付け肉を吊して。

ビールを飲んでできたばかりのハムやリゾットにピザを食べて。料理を作ったのはB氏と妻。B氏がここまで料理をする人とは知らなかった。さて月ヶ谷温泉ホテルは門限がある。通常より長く開けてもらっていたが途中で切り上げるのは面倒だ。次は寝袋持参で来てもらうことに。

木曜日は朝B氏と再合流し某所。歩いて小山を超えたが小さな峠から見た景色は美しい里山でちょっと感動。特に今日は空が青く山の緑が美しい。上勝に来たときは急峻な山に驚いていたがすっかり慣れてこの山が美しいと思う。帰りに役場に寄りK課長と話をして町長とも挨拶。

15時から某所で「田舎で働き隊」の社会人参加者Tさんとお話。ところがここにNHK徳島放送局の取材が入っていてびっくり。散髪していない上にキャップを被ってペチャンコの髪だったのに。カメラを向けられて思うことがしゃべられず。

高校の音楽室 (3月25日・水)


母校である徳島市立高校のオーケストラ部と合唱部による定期演奏会が土曜日にあるのは知っていたが校舎建て替えのため定演の練習を今の音楽室でやるのは今年が最後と聞き練習を見学してきた。定演は今年が42回目らしい。

母校に行ったのは1988年が最後のはずで21年ぶり。南校舎2Fを通り1年当時の教室を覗いてみたが何の感慨もない。高校3年間の放課後を毎日過ごした音楽室に行っても一緒。ピアノの位置や演奏台や壁の肖像画は昔のままだと分かったが懐かしさがない。

定演には出ないと突っ張っていた高校3年の3月に故・川人先生から声を掛けられ話したことや当時の川人先生の指導などを思い出しはしたが特に感情は動かず。ただ高校生の歌声に少し感動。特に3人しかいない様子のソプラノの伸びやかな美しさに感じ入った。

歌っていたOBは男声女声3人ずついたがY氏を除き20歳以上も年下ぽく面識はない。最後に見学に来た女性は私の6歳ぐらい上で見覚えがあり最後に立ち話。故・川人先生の市高での涙の最終演奏から27年。私の高校時代の思い出は消えかかっていることだけを認識した。

「勧請」の演奏 (3月24日・火)


今回の三田市での演奏が凄かったと私自身が思えないのはミスの影響か。バリトンが声を出す箇所を間違って混乱してしまい私は4小節ぐらい歌えなくなってしまったところがあった。だからかも知れないが私自身は一昨年の四国コンクール全国コンクールでの感動の方が大きい。

当時は難曲を歌うのに精一杯だったから気持ちだけは込めた。その印象が強いから一昨年の方が良かったような気がしているのかも知れない。といっても当時は8部で「NoNoNo・・・」と歌うところでパート毎にバラバラに分解してしまい歌いながらダメだこりゃと思ったのも事実。

それに一昨年のコンクールのDVDを見たら今ひとつ迫力に欠ける。ところが今回の「NoNoNo・・・」は各パートのリズムがぴったり合っていたしそういう細かな技術は明らかに一昨年より上回っていた。やはり思いだけでは伝えられないのが合唱の難しさなのかも知れない。

ともかく今回は最優秀賞。一昨年に比べ技術が上がったのは確かだろう。それで評価されたとは思う。合唱をやる以上技術を追求すべきことは確かだがそれでも妻が書いているように技術ばかりが評価されては合唱はつまらないとも思う。合唱はなかなか難しく奥深い。

凄かったらしい「響」の演奏 (3月23・月)


昨日行った「第2回全国男声合唱声楽アンサンブルコンテスト三田ハモらっせ!」。開演から2番目の演奏を終え着替えをしトイレに行こうとしたら周辺の立ち話が耳に入った。「徳島はうまいなぁ」「徳島は凄かったよ」と。もしかしてそれは我が団のこと?

その話を昼食後にしたらS氏が「徳島ラーメンがうまいって話とちゃうん」と。確かに後半4団体を聴いたら我が団のはずがないほど各団の演奏が凄い。あれを上回っているはずがないと審査発表は気楽に聞いた。市民30人が選ぶ三田賞か審査員特別賞がもらえば御の字だと。

だから司会者が「最優秀賞は徳島・・・」と言ったとき私は徳島の団がほかにも出ていたっけ?と思った。「響」という団名もよく聞き取れなかった。仲間たちも「え?何?」という状態。3拍以上たって私も周囲も騒ぎ出した。ミスもしたのに我が演奏はそれほどのものだったの?

表彰式の挨拶で審査員の作曲家・三枝成彰氏が「普通なら響が1番ですがコンクールの性格を考慮しました」といった意味のことを言った。懇親会で審査員から教えられたという団長によると審査結果は「響」がダントツの1位だったそうだ。私たちはそんな凄い演奏をやったのか?

三田ハモらっせ! (3月22日・日)


妻は4時過ぎに起きおにぎりを作り私は5時前に起き準備をして5:48出発。「響」団長宅に行き車を置き団長と文理大学経由で徳島大学前6:40。ここで7時に集合し今日は「第2回全国男声合唱声楽アンサンブルコンテスト三田ハモらっせ!」出演のため兵庫県三田(さんだ)市へ。

演目は一昨年の全国コンクールで演奏した真言密教の文言を男声合唱曲にした「勧請」。今回のコンクールの大賞は賞金50万円。「響」が出演する大編成部門(11名以上)と小編成部門それぞれに最優秀賞が10万円。他の賞で三田牛の肉が山ほどもらえるという噂があり力が入る。

雨と強風で鳴門大橋速度規制で不安を抱えながら着いたら指揮者は道に迷って遅刻。慌ただしく練習し本番に臨んだがホールが素晴らしく気分良く歌った。でもバリトンが1拍早く出てしまった箇所があり最後にグダグダ。三田牛が遠のいた。

しかも演奏を終え大編成部門の後半を客席で聴いたら全四国男声合唱フェスティバルとは比べものにならないレベルの高さ。我が「響」など太刀打ちできるわけがないと諦めた。ところが結果として何と部門最高の最優秀賞を受賞。まだ私は結果に戸惑いがあるところ。

かつての仕事仲間 (3月21日・土)


金曜は妻と10時半に家を出て鳴門の高島。友人T社長宅での宴会。詳しくは妻のブログに譲るが料理の準備をみんなで。と言っても私はY氏と2人で小さなパスタ生地を捻って形を作っただけ。一方J社の大先輩Y田氏とは11年ぶり。聞けばY田氏も辞めて10年になるとか。びっくり。

山川出身のK嬢とも久しぶり。2004年12月にT氏と流れていった八百屋町のお店で隣り合わせになったことがあるが彼女は覚えていなかった。さてそんな話をしながら15時過ぎから食べ始め私らの転居祝いを兼ねたケーキも食べ一旦16:25退席。私は「響」の練習へ。

日曜に兵庫であるコンクールのための最後の練習。終わって再び鳴門高島。改めて双子のT君/Cちゃんと遊んで上勝に戻ってきたのが9時半前。行きは1時間15分ぐらいだったが帰りは1時間5分。鳴門往復に加え鳴門−徳島往復もあったが疲れは少し。軽の運転にも慣れてきた。

土曜は午後から鳴門のT氏が遊びに来てくれた。4月から中学生になるお嬢さんと。会ったのは11年ぶりか。T氏の自宅は私の実家のすぐ近所でお嬢さんが通った小学校は私の母校でもある。こうやって昔の仲間と会うこと自体が楽しい。声を掛けてもらいありがたい。

徳島弁のニュアンス (3月20日・金)


仕事で徳島弁を使うと相手に対し失礼だと思っていた。なぜ失礼になると思ったかというと徳島弁には敬語表現がないからだろう。確かに私が子供の頃は親戚のおじさんにも学校の先生にも友達に対するのと同じような言葉を使っていた気がする。でも本当にそうなのか。

少し考えてみた。例えば町で偶然知人と会ったら「何(なん)しよん」と言ったりする。「何をしているの」「どうしたの」といった意味だ。でも相手が目上の人なら「何しよんえ」になるかも知れない。最後に「え」を付ける。この「え」に「ですか」という丁寧語のニュアンスがあるような。

いや。「何しよんえー」と語尾を伸ばすともっと丁寧か。親密さも入る。逆によく知った仲間なら「何しょん」になる(「よ」が小さい)。ちょっと乱暴で詰問調だが今風な若者言葉でもあるように思う。もっと乱暴に言うなら「何しょんな」だ。「何をしているのだ」の「だ」に相当する。

あとは語調と抑揚でニュアンスが生まれる。と思っているのだが本当だろうか。生きた徳島弁を長く聞くことも使う機会も少なかったから感覚が鈍っている。こんな風に分析すること自体が徳島弁から離れていた証拠。これから徳島弁の用法は意識して聞いてみようと思う。

徳島弁 (3月19日・木)


上勝に移住して私の徳島弁が復活し始めている。東京で9年もいたしJ社時代も仕事では徳島弁をほとんど使わなかったのに。そう言えばあの頃は仕事で徳島弁を使うことが礼を失するような気がしていた。だから徳島弁で電話を受けるといつもずっこけた。

電話の相手は阿波銀行と徳島県庁。「社長はんの予定やけんど来週で空いとる日ぃないでぇ」とか。電話を受けてその度に変な感覚に陥りながら結局引きずられて私も徳島弁で答えていた。徳島新聞と四国放送やほかの企業はそこまで強烈ではなかった。

でも今は全く気にならない。言葉は文化だと思うようになったしニュアンスまで伝わるなら徳島弁の方が優れていると思う。それで東京時代の後半から家庭内では徳島弁を使うようにしていた。でも東京時代の徳島弁は5%。今は復活したと言っても30%ぐらいだろうか。

そもそも100%の定義は難しい。例えば小学4年の頃に私は近所の祖母の言葉が半分ぐらい分からなかった。世代によって使う言葉が違うのかも知れないわけで。聞けば上勝特有の言葉もある。だから100%は無理だろうが1年も経てばベタベタな徳島弁を話していることだろう。

プログレ (3月18日・水)


この日記の古くからの読者はよくご存じの通り私の青春はプログレッシブロックに支配されていた。私に深夜の峠道の面白さを教えてくれたBPQが高校時代に私を引きずり込んだのがプログレの世界で特にピンクフロイドからは後の私の人生をも決定する影響を受けた。

分からない人には全く分からないかも知れない。プログレというのはロック音楽の1つのジャンルで1曲がやたらと長かったりクラシックの要素が取り入れられているのが特徴だ。その中でもピンクフロイドはキングクリムゾンやイエスと並んで3大プログレバンドに数えられる。

妻はプログレを「悪魔の音楽」と忌み嫌う。ところが昨日まで妻が東京に出張していた。心おきなくプログレを堪能するチャンスだ。そんなわけで毎晩CDを聴いた。1987年の「鬱」や1975年「あたながここにいてほしい」に1970年の「原子心母」。もちろん1973年の「狂気」も。

しかも部屋を暗くして。暗い部屋で聴くピンクフロイドはなるほど妻が言うとおり悪魔の音楽かも知れない。表面的な態度を剥ぎ取り心の奥底を抉られる。悩み暗かった私の青春に相応しい。そして暗くした部屋で聴く悪魔の音楽は今の私にとっても心地よい。

不達メール (3月17日・火)


3月5日頃からA社から届くメールが極端に減った。届いたメールの本文を読んでいると「全員に返信」を繰り返した履歴の中に私に届いていないメールの記述を見つけた。おかしい。どうも私のところに届いていないメールがあるらしい。

A社の担当N氏に言ったところ送信サーバーを変えたのが原因だろうと言う。でも3月9日の週になると全く届かなくなった。とりあえず私へのメールはプロバイダの別アドレスに送ってもらうことにしてメールサーバーを管理しているホスティングサービス会社に連絡した。

疑っていた通りサーバーにある迷惑メールシステムが過剰に働いてA社のメールを遮断していたらしい。この間おそらく私と同じサーバーを使っている人は同じようにA社からのメールを受け取っていなかったはずだ。必要なメールまで遮断してしまうとはとんだ迷惑メール対策だ。

水曜に連絡して金曜夕方に迷惑メールシステムの判定基準が緩和され止められていたメール38通が一気に届いた。インターネットメールが届くかどうか保証はないと10年前なら当たり前に言われていたが今また信用できない時代が来たと言うことか。

週末の活動(結局飲み会) (3月16日・月)


金曜日。N氏が飲もうと言って湯豆腐の材料を持ってやってきた。19時過ぎに飲み始め途中T氏がワインとお菓子を持って合流し私は理性が飛んで泣き上戸。妻がいないのに結局のところ激論になり「そんなヤツは友達ではない」とまで言われ気がついたら午前7時。

これで土曜日を棒に振った。起きたら夕方の4時だったわけで。その日は何もやる気が起きずラーメンを食べ夜少し寝て深夜になって部屋の片付けを始めて何とか洗い物をして寝たのが午前4時。やれやれ。彼のおかげで私の生活は滅茶苦茶だぁ。

日曜は先週に続きボランピア。私は10時半頃行って夕方4時半までやって誘われるままに公民館の座敷でビールを飲み始めたもので「響」の練習は欠席。地元の人たちと19時まで飲んで向かいの建物に行き新たなメンバーと飲んで次に私の事務所で2次会の始まり。

結局N氏を筆頭に私を入れて6人。N氏とT氏がギターを弾いて今日も気づいたら午前4時半。12時間飲み続け散会したがここからN氏と激論再び。懲りずに今日も6時半まで。WBCキューバ戦を少し見て寝た。もうさすがに体が持たん。

M社からのお誘い 3 (3月15日・日)


B部長Y課長のM社広報からの引き抜きから逃げた私は結局J社をただ辞めた。その後2000年に東京に引っ越した後にB部長はM社を辞めていたがY課長は昇進して広報本部長という肩書きだった。その頃三たびお誘いがかかった。

今度は執行役員M氏とM氏の意向を受けたY広報本部長から。彼らとは新宿のバーで飲んだ六本木のクラブに何度も連れて行かれて説得を受けた。明確な説得ではなくただ時間を共有していただけだったかも知れない。気持ちはひしひしと感じたが結局は断った。

その過程でM社の広報担当が年上の私の入社に難色を示したということをY本部長から聞いた。それをY本部長がメールだけで私に連絡したことにM氏が怒ったということも聞いた。後から電話も受け改めて会って誘われたが皆が私のために考えてくれていることを知って感謝した。

いつかは業界をリードするM社を中から見てみたいと思っていたが3度にわたるお誘いを断りチャンスを逃した。でもM社のOBが私のことを「古巣は裏切れないと誘いを断ったヤツ」と紹介したのを聞いて合点がいった。それを評価してくれる人と今繋がっている面白さ。

M社からのお誘い 2 (3月14日・土)


M社は諦めてくれなかったらしい。2度目のお誘いは広報課長Y氏の上司にB氏が就任した後だ。多分97年。連絡は基本的にY氏から来たが私がのらりくらりと話を先延ばしにしていたもので最後にはとうとうB氏が私の携帯電話に直接電話をかけてきた。

97年の秋頃だと思う。青山1丁目にあるJ社東京オフィス8Fの一番奥の広い会議室で社長も出席した社内会議中の21時とか22時頃だった。そんなことまで覚えているのは当時M社との競合問題が最大の懸案だった中で当のM社から電話を受けてドギマギしたからだ。

廊下に出て電話を受けたがB氏に押し切られ翌日だったか会うことになった。当時できたばかりのハイアットだかヒルトンだか新宿の高級ホテルに13時頃に行って座敷で天ぷらをご馳走になった。ビールも運ばれてきたが私が飲んだか覚えていない。

その場で私ははっきりとは返事をしなかったように思う。でも私の態度で察してくれたのだろう。その後にお誘いを受けることはなかったと思う。半年後ぐらいに私はJ社を辞めてさらに半年後に今後の身の振り方を考える段になったタイミングなら受けたかも知れないのだが。

M社からのお誘い (3月13日・金)


この日記は私の人生を記録するためのものであって人に何かを伝えるためのものではない。と言いつつ公表している以上書く内容は選ぶ。でも私はもうすぐ忘れてしまいそうだ。やっぱり自分のために記録しておく。もう8年以上も前のことだし関係者はみんな辞めているし。

という言い訳を枕に書くのは私がマイクロソフトから何度か誘われたことだ。最初は95年か96年。M社がJ社を潰しにかかる前。M社の当時の広報課長Y氏が放ったリクルーターが接触してきた。私は新宿の喫茶店で会った。

広報課長Y氏とは私がJ社にいた95年か96年頃にBCNの懇親会で会って2人だけで一緒に飲んだ。M社に誘われたのはその頃だったかも知れない。後に広報本部長に昇進したY氏とは私がJ社を辞めてから何度も飲んだがそのときに当時の裏話を聞いた。

Y氏は当時の人事担当役員に私のことを相談すると「今すぐ行け。すぐにやれ」と引き抜き命令を受けたと言っていた。でも私から見れば相手は最大の競合相手だったM社である。それに東京勤務も嫌だった。そんなわけで全くその気にならずあっさり断った。

J社の専務 (3月12日・木)


私は何度も専務と衝突した。私ごとき一社員が創業者に対して「衝突」はないが彼女の意見でよく方向修正を余儀なくされた。私が根回し先から外していたのは専務の時間が取れないことに加え反論が怖かったからだ。社長を隠れ蓑に私は逃げ込んでいたのだ。

業界最大手のM社の専務執行役を昨年退任したM氏から「今まで一番頭がいいと思った相手はJ社の専務だ」と聞いたことがある。私も彼女の頭の良さが怖かったのかも知れない。社長の権威が通じない相手であって本質的な議論をふっかけてくるという意味で。

女性的な視野の狭さはあったと思う。でもそれだけに議論が深い。そして社員を愛していたことも知っている。私の父が脳腫瘍で入院したとき電話を寄こしある薬を奨められたことがある。彼女もまた阿波女であり仕事に厳しく同時に立場を超えて人を思いやる心があったと思う。

私は仕事上では彼女から逃げていたが今となっては本心から一生懸命だった彼女に対し敬愛の念を持つ。仕事上の判断が正しかったかは別問題として目の前の問題にいかに本気で取り組んでいたか。その点で彼女の仕事人ぶりが今となっては懐かしい。

プロ推 (3月11日・水)


忘れないうちに記録しておこう。私がいた頃のJ社には「プロジェクト推進テクニカルライティング」と呼ばれる部署があった。女性ばかり最大40人ぐらいいたのではないか。のちに常務で退任する営業担当のK氏は会議で「大奥」と揶揄して専務と喧嘩していたのが印象深い。

K氏が言うところの大奥は通常プロ推と呼ばれ開発のスケジュール管理とマニュアル作成を行っていたが専務の秘書部門と言った方が正確だったと思う。専務の下に有能な秘書であるIさんという女性が部門を掌握していた。私は専務以前によくこの部門と衝突した。

主力商品のバージョンが6の開発中だったかの頃。開発途中のβテストを社内でしていたときヘルプの記述の出来の悪さをレポートした。普通に書いては目に付かないと思い「こんなヘルプでは商品としての価値がない」と酷評した。そしたら専務から「あの書き方は酷い」と怒られた。

しかも怒りの矛先は私の上司だった社長にも向いていたらしい。でも後日専務に謝られ感謝された。実際に見たら確かに酷かったと。危うくとんでもない商品を出すところだったと。それから大奥は大変な目に遭ったと思うが仕方ない。専務は本質を見抜き対応はいつも素直だった。

専務の意見 (3月10日・火)


J社時代に会議を開かず思うままに仕事を進めていると思わぬ横やりが入ることがあった。仕事の仲間とは情報を共有していたし社長をはじめ社内のキーマンには個別に説明して根回しをしていて修正すべき意見も得て会議がなくても支障がないのが基本ではあったが。

たいていの横やりは専務からだった。夫婦で創業した奥さんの方で開発系を担当しており社内での発言力は絶大だった。本当は根回しをしたいが秘書に言っても時間がないと後回しにされるし本人を直接捕まえるのも至難だった。

根回しにかかれば質問攻めにされ社内で最も手強い相手だったから私は確信犯的に無視して進めたこともある。社長には説明した上で。後は夫婦で解決してくださいと。でもある日強烈な意見が降ってきた。会社の近くのTK25という店でビールを飲んでいたとき携帯電話に。

まずは専務の巨大な秘書部門だったマニュアルチームのS嬢から。次にそのチームのI部長から。数分おきに最後は専務から。J社の女性3段攻撃。でも3段攻撃の印象が強烈で内容を忘れてしまった。記者発表のことだった気はするが何のことだったけ。覚えていないのが残念。

確定申告と鳴門往復 (3月9日・月)


締切1週間前になって確定申告書を作成した。私の分だけは先週少し手を付けていたが今年は簡単そうだったのでやる気が起きず今日やっと作成した次第。といっても国税庁のWebサイトに必要な金額を入力するだけ。今年は今までと違い1カ所からの給与だけだから超簡単。

本当は会社で年末調整をやるべきなのだろうが私は医療費控除があったため年末調整をやったところで二度手間になるのが分かっていたので。それ以前に年末調整は面倒そうで個人の確定申告1本が楽だと思ったのだ。妻の分も私が作った。

で作成した申告書を印刷して封筒に入れて徳島税務署の夜間受付ポストに入れてきた。医療費の領収書は数えてないが100枚を超えていただろう。私の歯医者と義母の手術とリハビリ通院に妻の諸々。昨年は合計31万円もかかっていた。

さて今日は徳島税務署からそのまま鳴門の実家に行き鍋を返し母と夕食を食べ実家で余っていたテーブルを持ち帰った。地元の方が来てくれたとき用に。帰りにY氏/M嬢宅。妻からの預かりものを渡したらコーヒー豆をもらった。ありがとう。往復とも雨で疲れてしまった鳴門往復。

地元でボランピア (3月8日・日)


近所のY氏が言うところのボランピアに誘われて行ってきた。ボランティアのことだが地元の産直市を始めるそうでその小屋作り。朝8時からやっていたそうだが私が行ったのは10時過ぎ。昼食は公民館の座敷で奥様方が作ってくれたちらし寿司。17時まで作業。

まずは長さが足りない鉄パイプに短いパイプを繋いで調整。いきなりその計算を任されて私はパニック。穴の深さとパイプの長さがおのおの違う上に3cmずつ傾けたときの嵌め込む長さの計算。携帯電話の電卓を使い1月に会った中学の同窓生F君に助けてもらって何とかなったが。

今回誘ってくれたY氏は溶接に大忙し。阿波晩茶作りから旋盤から溶接まで何でもできる。尊敬を念を新たにした。作業は最後に骨組みの位置と角度を修正してセメントを土台に流し込んで。セメント作りにも参加したが邪魔でしかなく私は荷物運びと流し込んだセメントを棒で突くだけ。

地元の人と挨拶したり雑談しながらの肉体労働が心地よい。17時からは宴会があったそうだが私は徳島に出て「響」の練習。実は次の本番が2週間後でサボるわけにもいかず。でも宴会不参加が残念で仕方ない。夜は鳴門の従兄弟が月ヶ谷温泉の帰りに寄って1時間。

会議と仕事 (3月7日・土)


先般会議のことを書いた。それで思い出したがJ社時代の私の仕事は会議を持たず勝手に進めた。記者発表会の打ち合わせはやったと思うが進行状況の報告をして情報を共有するためだけだったような気がする。社長には個別に説明して了承を得るようにしていた。

会社の会議はたいてい形式だけだ。みんなで決めたという儀式だと思う。それなのに会議となると反対意見から入る人がいる。それで議論が遠回りする。反対意見の内容は本質ではなく人間関係に引きずられていたりもする。だから個別に根回しして承認を得た方が話が早い。

根回しをしてしまうと皆の英知を集めるという会議本来の効用は生かせないが会議はデメリットの方が大きいと思っていた。特にJ社は社長の意向が絶対だったから社長を味方に付けていればそれで済んだ。「社長には伝えています」と錦の御旗をかざせば誰も反対しなかった。

会議は情報と思いを共有する場で十分だと私は思う。会社の仕事を進める上で会議を開くより勝手に進めた方が100倍以上効率が良かったと今でも思う。仕事をする上で会議を開くだけで満足している人もいるのではないか。そう思うから私は会議が大嫌い。

徳島2往復 (3月6日・金)


昨日の講師S社長と一緒に役場K課長の車で町内見学。B氏M氏も一緒。と言っても最初はパスして途中から合流。結構激しい雨。でも途中で晴れた。一旦温泉に戻りB氏のレンタカーでゴミステーションをS社長に紹介して解散。

午後は妻のバスチケットを買いに小松島に行き徳島駅まで回り振込1件2万円弱。帰りに灯油を3タンク分買った。灯油を買うのはこれが最後になるだろうか。3月中持つだろうか。後でどのぐらい消費したかをまとめておこう。ペースは東京時代と大きく変わらない気もするのだが。

さて今日は妻が出張に行った。まずは関西国際空港から韓国へ。先方のテレビ局が取ったチケットが朝9時台の便らしくこれに乗ろうとすると徳島からのバスが午前5時発。ということで上勝を4時頃に出なくてはならない。仮眠2時間で余裕を持って3時50分頃に車で出発。

今日は急がず行ったので深夜ながら徳島駅まで少しかかって45分。しばらく駅前で待機してから見送った。裁判所前まで並行して走ろうとしたが信号で取り残されたのは赤信号でも突っ込んで行った徳島バスのせいだ。そんなわけで今日の日記は土曜朝6時半にアップした。

上勝の講演会 (3月5日・木)


お昼に徳島空港。今日は東京からのお客さんS氏をお迎え。私は東京を離れる前に2度お会いした方。妻は仕事で何度も会ってる。空港で待っていたら見知った別の方もいて彼W氏も上勝に行くと言う。W氏はボランティアタクシーを頼んでいたそうで私はS氏と2人で上勝へ。

県庁でM氏をピックアップ。月ヶ谷温泉でM氏を下ろしS氏を案内して樫原の棚田。続いて我が傍示地区を案内して事務所に寄った。風邪の妻も含め少し話をして妻とS氏と再び月ヶ谷温泉へ。夕食をとり今日はS氏が講師をする何たら講演会なのだ。

と途中のいっきゅう茶屋で見かけたのが今日の講師であるもう一人のS氏。車を停めて立ち話。2台連ねて温泉に行き講師の人たちが用意された料理を食べる奥の方で私たち夫婦だけで早めの夕食。そこに上勝の先輩S氏が合流し農協の彩担当N氏も一緒になって食べた。

講演会はお菓子材料通販で急成長のS氏と空港から案内したS氏が講師。最初のS氏とは95年以来のお付き合い。講演会が終わって町長らがいる宴会に参加。東京からB氏も合流して私は酔っぱらい。温泉の入口を開けておいてもらい会議しばし。風邪で飲んでない妻の車で帰宅。

ストレス (3月4日・水)


妻がまた風邪を引いたが私も体調が悪い。昨日は日中ほとんど寝て過ごした。今日は幾分ましだが具合が悪い。原因は精神的なものかも知れないと思っている。1週間ほど前から気分的に落ち込んでいる。いろんな諸々が心配事となって押し寄せてきた感じなのだ。

その心配事はだいたい杞憂だということも分かっている。この状況は五月病みたいなものではないかというのが私の自己分析。引越が終わり生活が落ち着きこれまで張っていた気が緩み環境変化の目に見えないストレスが表に現れ始めたという意味での。

結婚も昇進もストレスだと以前聞いたことがある。それに近いものかも知れない。心配事もこれまでなら気にしなかったような小さなことだ。そんな小さなことが気になるのは生活が落ち着いた裏返し。そしてこれまでのストレスが顕在化した。

救いは地元の人の中に何でも話せる人がもう数人いることだ。そのうちの一人N氏はこの日曜の夜もT氏Y氏とやってきて朝6時まで激論。それで心配事を聞いてもらい心のもやもやをはき出した。もうすぐ春。あと2週間ほどでこの状況を脱するだろうと想像してはいるのだが。

地域間競争 (3月3日・火)


田舎への移住を会社への転職に昨年例えたら意外に当てはまっていた。さらに言えば地域は企業と同様に競争しているようにも見える。競うのは税収と住民サービスだろうか。最近はブランドの浸透度まで競争している。悪いことではないと思う。

規模のメリットを得るため合併する企業もある。いつの間にか鷲敷と相生は那賀町に統合されていたし脇町と穴吹は合併して美馬市になっていた。それらは単純に財務的な理由からだろうが個性が消えたかというと東京からは大して変わりがないように見えた。

合併していない上勝や神山はどうか。県内の町村はお互いを意識しているようにも思えるが上勝の葉っぱビジネスと同じことを神山でもやっていると聞いたときは驚いた。高々2億円のビジネスで二番煎じは通用しないと思うのだが。

東京からは分からなかったが上勝町の中でも地域間で競い合っている。それが各地域の活性化につながり全体として元気になるならいいことだと思う。最近地元の人からそんな話を聞いて私なりに考えたりしているがアイデア次第で面白いことができそうな気がする。

車のマナー (3月2日・月)


徳島に帰ってきて嫌な気持ちになるのが車の運転のマナーの悪さだ。ウィンカーを出さずに曲がる車が今もいる。18時になって周りの車がヘッドライトを付けているのに無灯火の車もある。トンネルでの無灯火は10年前より多くなっていると思う。

マナーではなく頭が悪いとしか言いようがない人もいる。例えば年末に市内に行ったとき渋滞しているのに前の車に付いていって踏切の上で停車した車があった。すぐ後ろにいた私は万一列車が来ても前の車がバックできるように車間距離を3台分ぐらい空けて待った。

一方で10年前に比べてマナーが良くなっていると思うこともある。夜の11号線で工事があったとき2車線から1車線に合流するとき私の前後10台ぐらいは双方が譲り合って交互に入っていた。これが当たり前だが10年前ならお互いが譲るようなことはほとんどなかったと思う。

上勝は徳島の中では特殊かも知れない。交通量は少ないが徳島市と繋ぐ県道を走っていると遅い車はいちいち路肩によけてくれる。私も軽なので速い車が後ろから来たら路肩によける。こういうのが気持ちよい。なので徳島市に出ても同じような気持ちでいようと思っているが。

美杉峠と相生と鷲敷 (3月1日・日)


徳島は沿岸部を除き川沿いに人々が生活している。北から数えて吉野川・鮎喰川・勝浦川・那賀川が西から東に流れている。私が住んでいるのは勝浦川沿い。今日は那賀川沿いにある相生の町に行ってきた。妻が1年前から行きたいと行っていた乗馬クラブ見学である。

見学は滞在5分で終わったが前後の道で少しだけ冒険した。まず上勝から相生に行くのに月ヶ谷温泉近くから南に峠を越えた。頂上の石碑を見るとそこは美杉峠。私に峠道の楽しさを教えてくれたBPQに教えられて何度か通ったことを思い出した。いつも相生側から登ったはず。

当時は上勝の役場の先から製材所の角を右折してどこかの峠道に行っていた記憶があって最近上勝の奥でその右折ポイントを探したが見つからなかった。見つからなかったはずだ。その製材所は美杉峠に登る相生側のポイントだった。今日逆から行って気がついた。

相生にある車1台ギリギリ通る橋も渡った。そこから阿南に抜ける峠道で私はタイムを計っていたのだが登り口あたりまで行った。一方で鷲敷には新しい大きな橋ができて昔N君がカヌーで飛び降りようとしていた橋はなかったような気がする。休日の120kmドライブは楽しかった。


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© 2009 Takashi INAGAKI