2011年2月

Y氏の退職 (2月28日・月)


金曜の夜だった。Y氏がJ社を辞めたと知ったのは。友人が別件のメールに書いていた。驚いてその日のY氏のツイートを読んでみたら辞めることを示唆した発言がいくつもあった。同じ会社の人たちもY氏が辞めることを前提にした発言がある。驚いてY氏に宛てたツイートをした。

Y氏は私の2歳上だったはずだが私の2年後ぐらいに中途入社したと思う。大学は同じ京都のライバルで何となく話題が合った。私がいた頃は営業企画部の課長で席も近かったし仕事でも関わりが大きく頻繁に話をしていた。初期の頃はスポーツクラブでよく一緒になった。

その後の彼との関係は知っている人からすれば面白く不思議なものかも知れない。彼も私もその関係を隠すつもりはないし後輩に2人から話したりもした。妻を渋谷で引き合わせたこともある。そう言えば青山のJ社東京オフィス近辺で一緒に飲んだこともあった。

2週間前には先日書いたE君が辞めた。Y氏とE君は私が知っている中でJ社を牽引する人物だと見ていた。だから。喜屋武さんが辞めたとき以来のショックとは言い過ぎだが複雑な気持ちに陥っている。旧友が口々に言う「昔とは違う」ことの現実を外にいて思い知らされている。

上勝TV報告会/Ustream説明会 (2月27日・日)


土曜は上勝TV報告会/Ustream説明会を開催した。月ヶ谷温泉近くの福原ふれあいセンター。徳島県の財団の助成とのことで役場から話があったのが昨年12月。日時をどうするか相談してチラシを作ったりしたのが1月。プレゼン内容の準備を始めたのは10日ほど前から。

1月の時点でプロデューサが「説明会をいっそUstream配信しよう」と言い出してその準備にも手が取られる。といっても準備したのは技術担当のM君だけど。私は会場の下見をして事務所のルーターやハブやLANケーブルを含め機材をごっそり持っていきセッティング。16時集合。

回線がなかなか繋がらなかったが比較的順調に進み19時にまずは配信を開始。この日はスタッフのうち地元のT氏が仕事の都合で時間に間に合わなくなりパーソナリティのイマジンは元々後半から参加予定だったが風邪でダウン。後半のゲストトークはルパンと急遽代役のプロデューサで。

いつもの番組と違い綿密な打ち合わせをせず裏の動きも見せようというのが今回の目論見だったが説明中にTLを拾うことや声を掛けることは難しく会場とUstreamの双方のバランスを取るのは至難だった。会場に22人。Ustreamのピークは39人。総視聴者数527。なるほど。そういうことか。

クレーム対応 (2月26日・土)


一太郎Ver.4のバグ騒動の中でユーザーからのクレームに対処しきれなかったことがある。営業やサポートで対応できないクレームは私が所属していた社長室に回ってきていた。でも社内の誰しもが自分のところで対応しようと努力していた。私のところに来るのは本当に強烈だった。

私も対処しきれず営業部門に相談に行ったことがある。沖浜第1ビルの入口付近にあった営業部門に行って当時営業責任者だったN山さんに事情を話した。元々担当していたのは私と同期だった営業スタッフのF山さん。彼女が傍らに来て「私の責任なんです」と涙ながらに言い出したり。

結果としてこのクレームは営業部門が引き取った。私たちの会話を聞いていた当時は営業にいた先輩M橋さんが「その人に会いに行ってこようか」と提案してくれたのだ。「会って話をすれば大丈夫だよ」と。営業担当の胆力を見た思い。それ以来私はM橋さんのことを尊敬している。

思い出を美化しすぎている気がしなくもないが私の記憶に残っているのは社員全員がお互いを支え合っていたこうしたエピソードだけになっている。嫌なことも山ほどあったと想像するけど今となっては何も覚えていない。楽しく前向きなことばかり。どうしてだろう。

風邪とケンミンSHOWと同級生 (2月25日・金)


火曜に旧美郷村に行ったとき喉が痛くなってきた。水曜には鼻水で完璧に風邪の症状。いつもなら病院に行かず薬も飲まず寝て直すのだが週末に仕事が立て込んでいるので木曜に診療所に行った。そこで言われたのはアレルギー反応の可能性のことだった。まさか杉?

木曜夜は妻らが事務所で宴会。もし風邪なら移してはいけないとベッドで寝ていたがツイッターでは「秘密のケンミンSHOW」の話題。後からビデオで見た。姿鮨は上勝あたりでは当たり前のようだが私には馴染みが薄い。ただし竹ちくわやキョーエイや徳島製粉と日亜化学は順当なところ。

お好み焼きで紹介されていた「ニュー白馬」は名前を聞いて思い出した。高校時代によく行った。たいてい合唱部の練習帰りで先輩たちと5〜6人。徳島でボーリング場は今は末広だけだが当時は住吉や三ツ合橋近くや佐古にもあって投げ放題で8ゲームぐらいやった帰りだったり。

さて先週この話題を書いたら部長の奥さん役は高校の同級生だと友人Dが教えてくれた。坂尾直子さん。名前に記憶はなかったが卒業アルバムを見て思い出した。学園祭の実行委員だったという話も。18歳の頃の彼女の写真を確認して今回テレビを見たところ少し面影が残っていたかな。

ライン作業 (2月24日・木)


J社の急造ライン工場に私はしょっちゅう通ったように思う。でもそれは会社からの命令や指示ではなかったはずだ。ユーザーや販売店に迷惑を掛けた事実を前に営業は全国を回って頭を下げ開発は昼夜なく仕事をしている。その仲間を見て自分たちができることを考えての行動だったと思う。

当時の私は社長のスタッフだった。でも秘書として社長の出張についていくだけだった。社長からは「お前が工場に行くことはない」という意味のことを言われたこともある。でも1個でも多くパッケージを作り少しでも早くユーザーに送る方が大事だと考えていた。そう言ったら社長は黙った。

確か定時は17時半だったと思う。サポートや営業スタッフの女性社員は1日中クレームなどの電話対応をしていた。彼女たちは17時半が過ぎ自分の仕事が終わると工場に来てラインに加わった。これも誰が指示したわけでもないと思う。みんな自主的に集まったのだと思う。

そのラインで1日のことを報告し合いながらの作業は実に楽しかった。本当に楽しかったという記憶しか今は残っていない。誰かの役に立っているような感覚があったかも知れない。会社の仲間たちとの一体感はあった。あの数ヶ月間が私の仕事の上での財産かも知れないとさえ思う。

工場のライン (2月23日・水)


J社の本社近くの工場は元々倉庫として建てられたものだと思う。文理中高の隣。今はダイソーがある場所だ。ちょうど転職してきた40歳ぐらいだったO氏の元で工場が稼働した。印刷会社から運び込まれた箱を組み立てフロッピーディスクとマニュアル数冊とチラシなどを入れる作業である。

当時のJ社はホウエイ産業とシンシン商会(漢字を忘れた)にパッケージの組み立てを委託していた。どちらかの会社かから担当の方がライン組み立ての指導に来られた。このときO氏の元でリーダーシップを発揮したのがつい先週会社を辞めたが当時新卒入社3ヶ月のE君だった。

私やスタッフ部門の入社1〜2年社員はほぼ毎日工場に行った。印刷会社からトラックに満載されてくるマニュアルなどを受け入れフォークリフトで下ろしラインに配置する。ラインに置かれた部材を1つずつ順番に重ね最後に重さを量って過不足をチェックして箱に入れる。この流れ作業。

マニュアルを載せたトラックが徳島市山城町を三好郡山城町と勘違いして何時間か遅れて来たこともあった。出来上がったパッケージはここからユーザーに直送する。19時頃に郵便局のトラックが完成したパッケージを取りに来てその日何個発送できたかが分かる。その数字に皆で喜んだ。

バグ騒動でのクレーム (2月22日・火)


一太郎Ver.4は2月に日立のPC「Proset」向けに先行して発売され確か4月20日にNEC PC-9801シリーズ向けに販売が開始された。日立向けがVer.4.0。NEC向けがVer.4.1だったと思う。そのどちらにも致命的なバグがあったが深刻だったのは当時シェア8割以上だったはずのNEC版の方だ。

J社はバグがあることを承知していて改訂版の開発を急いでいた。でもバグはあまりに致命的すぎた。日経の報道をきっかけに不安がったユーザーから悲痛な電話が掛かってきた。電話を受けていたサポートチームで納得いただけないユーザーの電話は社長室の私と数人で受けていた。

今でも忘れられないのは京都の自動車教習所で時間表を印刷すると一晩かかっても印刷が終わらないという電話。高知の女性の方とも内容は忘れたが長電話になった。私は入社2年目。秋になって沈静化しても後輩の1年生N君は社員旅行先の沖縄からユーザーに電話を掛けていた。

営業はもっと大変だった。頭を丸めた社員もいた。ただ21年が経った今となっては私はいい思い出ばかりが残っている。特に入社2年目の私や後輩たちは自分たちでできることをしようと本社近くに急造した工場で働き始めた。これが実に楽しかったのだ。

バグ騒動の始まり (2月21日・月)


先日ライブで会った初対面のJ社現職社員2人に何故か昔話をし始めた私。そのとき話をしたのは私が入社前の業界黎明期に20歳代後半で活躍した先輩たちのこと。私の先輩には当時は重かったデスクトップパソコンを背負って全国行脚した人やソフトバンクの10番目の社員とかがいた。

でも話しているうちに涙ぐんでしまったのが発売した新製品にバグがあると日経新聞が1面で報じて以降の怒濤の日々のこと。あの報道は1989年6月9日(金)だったと思う。ちょうど完成した第2ビルに引っ越ししていた日。引っ越しで電話もFAXも切ろうとしていたときだったと思う。

会社の存続に関わるような大事件だったのに入社2年目の私は暢気だった。引っ越しが終わってその夜は皆で飲みに行った。翌土曜は社長が徳島大学で講演したのだが私は起きられずに遅刻した。社長の講演が終わって徳島大学前のゲンダイで昼食を取ったことも覚えている。

あの日は社長も暢気だった。既に社員が300人いたにも関わらず会社の売上が2ヶ月間ゼロになることを予想していなかったと思う。でも週が明けてユーザーから悲痛な電話を受けるに至って私たちは現実を知った。それからの約半年が私にとって仕事の姿勢の原点になったように思う。

同期の友人夫妻と川内のライブ (2月20日・日)


土曜午後。J社で同期だった友人夫妻が上勝に訪ねてきてくれた。12月と1月のとくしまマルシェで偶然会っていたのだが古くは10年前に吉野川大橋の上を車で走りながら挨拶したことがある。でも妻はほとんど初対面に近い。奥さんの方は先月退職したとのこと。諸々の情報交換。

夕方出かけて徳島市川内。友人がミニライブに出演するというので行ってきた。J社の元同僚とも会ったし初対面の現職社員に何故かJ社の昔話をし始めた私は酔っぱらい。ライブに出た友人夫妻の自宅まで歩いて宿泊。前にいただいていたワインを持って。J社が創業した1979年のもの。

結局寝たのは3時を回っていたらしく友人宅で起き出しのは昼近く。橋本で蕎麦を食べて勝浦へ。何千体ものひな人形を飾ったビッグひな祭りを初めて見学。さらに民家が各々道路に向けて雛壇を飾っている坂本地区へ。おひな様の奥座敷。ツイッター仲間らとも会った。

一旦上勝に戻り私は再び徳島へ。城南高校校歌を歌ってから1週間ぶりに「響」の練習。今日は難曲の音取りだけ。シャープとフラットのオンパレードで1曲が終わらず。さて「響」は今年5月4日に定期演奏会を開催する。いつものことだが大丈夫かなとやや不安。

秘密のケンミンshow徳島編 (2月17日・木)


テレビ番組「秘密のケンミンshow」のコーナーで転勤した先が今回は徳島が舞台だった。カステラのようなお菓子「小男鹿」はJ社時代お客さまのお土産に渡していた。余ると自分たちで食べたり。確かに高いから自分で買ったことはない。あれは接待用のお菓子だという認識だ。

しかしマツモトキヨシやスターバックスが開店して行列ができたことを殊更取り上げられて私は恥ずかしい。映像ソースは四国放送だが徳島を貶める情報を出すこともないだろうにというのが正直な感想。スタバが昨年までなかったことが田舎の証明なのだと思う。

鯛飯の「とゝ喝」には納得。7年前に関西テレビのK支局長から今徳島で食事するならここだと教えられた店。父の一周忌に従兄弟らと行ったし一昨年は日経BPのF局長と行った。スダチをカボスと間違われたら怒るというのもよく分かる。私も怒ると番組後ツイッターでU氏と盛り上がった。

ただツイッターでも多くの人が書いていたが徳島県民だからと言って阿波踊りを踊れるとは限らない。阿波踊りは小学校の運動会からやっているが私はうまく踊れない。でも徳島県民としてうまく踊れないことに引け目もある。概ね今回の番組はツボを突いていたと思う。なかなか面白かった。

テレビ鳴門 (2月16日・水)


先日実家に行ったとき母がBS放送を見たいと言う。テレビは昨秋26インチのデジタルテレビを買って8.4万円もの料金を支払ってCATV局テレビ鳴門に加入している。でもBSは映らない。テレビ鳴門の資料を見てもよく分からないがテレビの裏を見たらBSアンテナ端子にケーブルが来ていない。

これが原因だろうと分波器を買って持っていった。ところがそれでもBS放送は映らないのである。帰宅してWebで確認したら地上デジタル放送を見るために払っている月額1,890円に加え登録費工事費込み42,400円ものセットトップボックス(STB)を買い月額1,575円を支払う必要があるらしい。

レンタルも可能だが月額1,995円。地上波とBSを見るためには合計3,885円も毎月支払う必要がある。テレビトクシマでもCSを見るためにSTBを使うと3,675円だがBS放送だけならSTBは不要。1,995円で済む。いくら何でもテレビ鳴門の月に4,000円弱は高すぎるのではないか。

そこでBS放送を見るためにパラボラアンテナを自分で取り付けようかと思案中。問題はケーブルを屋内に取り込む工事を自分でできるかどうか。あるいは工事は業者に頼んでも1年で元が取れるだろう。母がいつも依頼している鳴門の電器店にアンテナ工事費を問い合わせてみるつもり。

メガネとサングラス (2月15日・火)


メガネを買ったことは前に書いた。受け取るのは12日(日)15時以降のはずだった。ところが前日の土曜。アンサンブルコンテストに出かける前にシャワーを浴びた直後だったと思うのだがメガネを落としたらフレームが折れた。右の耳掛け部分の根本から。あちゃぁ。

その日は「響」の本番演奏と翌日は法事。念のため新しいメガネを買った店に確認したら受け渡し1日前だが届いていると言う。であれば徳島まで運転できる間持てばいい。そこでアロンアルファで着けてセロファンテープでグルグル巻きにして何とか運転だけはできるようにした。

本番演奏前に慌ただしく店に寄りメガネを受け取り事なきを得た。初の遠近両用。なるほど事前に説明を受けていたが斜め下は度が入っておらずぼけて見える。それにしても遠近両用が目的だったとはいえフレームが折れることを見越したかのような買い換え。事前に買っておいて良かった。

さて昨年までは度付きサングラスと使い分けていたがサングラスは無くしてしまった。でもサングラスと掛け替えると微妙な違いで目が疲れていた。そこで今回はメガネの上に引っかけるサングラスを日曜に買ってきた。このセットを今後5年は使うことになるだろう。大事に使わないと。

積雪 (2月14日・月)


午前11時頃からだろうか気づけば外は大雪。みるみる積もる。今日は銀行振込のため徳島市に行き鳴門の実家で用を済ませようと思っていたが昼過ぎには断念した。上勝を出ることはできると思ったがツイッターによると徳島市内も相当降っていると聞き。市内の渋滞に捕まると思った。

徳島市は三角州にできた街なので橋が多い。雪が降ると橋が凍る。県庁前のかちどき橋など坂道になっていると上がれない車が出てくる。徳島市内の乗用車はFFでノーマルタイヤがほとんどだ。あるいは事故を起こす車も出る。そしてすぐに渋滞するのである。

J社時代まだ鳴門から通っていたとき積雪渋滞で20km弱の距離に朝3時間ぐらい掛かったことがある。北島と川内を結ぶ共栄橋で上れない車があったと後から聞いた。8年前には阿南の富岡西高校から徳島市まで20kmほどの距離を帰るのに8時間半掛かったという話も聞いた。

今日は出かけなくて正解。上勝では観光バスがガードレールに張り付いて立ち往生しているとか徳島市内は10km/hでのろのろ運転だとか16時頃には大渋滞だという情報がツイッターで次々入る。私が住んでいるところでさえ積雪10cmを超えていた。ただし雪に興奮して仕事が手に付かず。

徳島県立城南高校の校歌を録音 (2月13日・日)


今年の選抜高校野球大会には徳島県立城南高校が出場する。10年前に創設された21世紀枠という推薦でだが。城南高校には中学時代に親しかった友人の半分ぐらいが進学していたし特にT石は野球部にいてOBチームとして今も全国大会に出場している。

さて甲子園で勝つと校歌が球場に流れるが春の大会は学校が用意しないといけない。ところが伝統ある城南高校の合唱部は今はないらしい。それもあってだろう徳島男声合唱団「響」に対し団員であり城南高校教師でもあるA氏を通じて演奏依頼があった。2週間ほど前のことだ。

「響」メーリングリストで多少の議論があったものの受諾することになり今日城南高校に出向いて録音してきた。16時に集合してまず「響」だけで練習して18時前に学校のブラスバンド部に合流して。3番までの歌詞のフルバージョンと1番だけの甲子園用の2パターンを録音。

今日は退団または休団中の城南高校出身者も参加。数えてみたら今日集まった15人のうち7人が城南高校のOBだった。最近の甲子園では試合の3回だか5回終了後に両校の校歌が流れる。もちろん勝てば試合後に聴ける。そんなわけで城南高校を応援する方は校歌にもご注目を。

七回忌と元同僚と (2月12日・土)


鳴門の実家を10:30出発。私と妻が乗った車の後から母と弟と甥と犬が乗った車。2台で阿波市へ。父が亡くなったのが6年前で今日は七回忌法要をお寺で行ったのだ。本当は実家でやる予定だったが弟の子が手術を受け母が東京に行くなどの話の中で準備ができないと母が言い出して。

1時間で着くと思っていたが甥がぐずって2度コンビニで止まり到着したのは10:45。旧阿波町の明王院。1,200年前に弘法大師が創建した寺で副住職は私の「響」の仲間でもある。数年前に再建した新しい本堂に声明も習っていたという副住職の堂々とした読経の声が響いた。

終えて土成のたらいうどんへ。いつものように沢ガニと焼き鳥とたらいうどん。再び2台で鳴門に向かったが母の車がコンビニに寄ったので私たちはツイッター仲間である白猫堂ノスタルジックのお店を探して撫養街道へ。運良く見つけて1点買い物。それから父の墓に行き卒塔婆を立てて。

弟らとはここで分かれて松茂のやまなみ珈琲店。昨日上勝に向かっていると突然電話をもらったN氏親子と会ってきた。20年前に形式的に私の上司だった方と息子も元同僚。多分9年ぶりぐらいと13年以上ぶり。昔話や元同僚たちについて情報交換。また付き合いが復活してうれしい。

アンサンブルコンテストと弟と甥 (2月11日・金)


上勝は前夜からの雪が積もっていたが道路の雪は溶けていた。13:50出発して1時間弱で徳島市文化センターに。今日は徳島県合唱アンサンブルコンテスト。我が「響」の出番は最後。16人が舞台上では整列せずランダムに立って2曲を歌った。金賞とベストハーモニー賞を受賞。

表彰式後の全体合唱の前に退席して鳴門の実家へ。明日は法事で弟が東京から帰省しているので私たちも実家に泊まることにした。弟の子が生後2ヶ月で先日手術を受けたばかりで奥さんは来られず今回は昨年突然私の甥になった3歳児と犬のケースケと。

すき焼きを食べて弟は甥を寝かせて21:30頃から母と妻と弟の4人で話をし始め24時半頃まで。話題は弟の子供の頃のことや私たちの病気と甥の病状など。あるいは鳴門うどんと徳島ラーメン。母が甥に「おばあちゃん」と呼ばれてるのは変な感じ。

母は正月に東京の弟宅に行ったから甥とは今回が3度目。でも私は昨年5月以来の2度目。だからだろうか弟が甥から「パパ」と呼ばれているのにも馴染めない。それでも弟は再婚して丸くなったか私たちがビールを4本も飲んだからか今晩の4人の会話は弾んでなかなか楽しかった。

親友ニシノとWi-Fiルーター (2月10日・木)


水曜の夕方に高校の同学年にして東京から仕事で来ていた親友ニシノと会ってきた。なぜ会ったかは内緒だが会話の中で彼が使っているUQ WiMAXのモバイルルーターの話になった。要はUQコミュニケーションズ社が提供する電波を無線LANに変換する機器を使っているわけだ。

ところが東京から徳島の高速道路のサービスエリアのほとんどでUQ WiMAXは使えなかったらしい。それはそうだろう。カバーエリアは都市部から整備しているのだから。なぜドコモのWi-Fiルーターにしなかったのかと訊いたらその存在を知らなかった。残念。

我が家でも妻がiPhoneが欲しいと言い出して通信費をどうしようかと考えている。現在モバイル系だけで私と妻の携帯電話(ドコモ)と私のiPhoneとPC用FOMA通信カードがあって妻の携帯とiPhoneが定額制の上限額を使っていてFOMA通信カードも月によって上限額に達する。

ここでドコモWi-Fiルーターを導入すると逆に全体の通信費を抑えられるのではないかと試算中。iPhoneを買っても上勝に住んでいる以上は電波が入らないソフトバンクに完全移行するわけにいかずドコモとの2台持ちは必須。ドコモのスマートフォンも含めてしばらく検討することを楽しむつもり。

徳島は狭い (2月9日・水)


徳島は狭い。今日法務局に行って手続きをしていたらiPhoneが私へのツイートを知らせてくれた。見たら1年前に知り合った仲のいい新妻きりちゃんが私のそっくりさんを見たとツイートしている。「どこで?」と返信したら法務局だと言う。「それは本人です」と返した。

昨日は沖浜の100円ショップに寄っていたらJ社時代の同僚Rちゃんと会った。彼女とは12月のとくしまマルシェで12年ぶりに再会して1月のマルシェでは彼女と社内結婚して現在は東京に単身赴任中のB君とも会っていた。12年ぶりに会ってから3ヶ月連続で話をしている。

かつてJ社の同期Y田君がみんなに隠れて交際していた同期のN島嬢と南阿波サンラインにドライブに行ったらS宮さんだったか上司の家族と会って肝を冷やしたと言っていたのを聞いたことがある。徳島県内で隠れた行動は絶対にできない。どこかに知人の目がある。

徳島に帰ってから気づいたが例えば飲み屋で新しい客が来ると必ず見る。私が先客でも見るし私が入ると先客が私を見る。もしかしたら知人じゃないかと確認しているのだろう。そして知人が来る確率はそれなりにあるのが徳島だ。知人なら「何しょんな」と盛り上がる。徳島の世間は狭い。

ホテルニュージャパン (2月8日・火)


ホテルニュージャパンが炎上したのは2月8日だったらしい。1982年のことだ。私は高校3年。大学受験の年だったからよく覚えている。同じ年の3月には羽田沖で日本航空機が墜落した。片桐機長が着陸前に逆噴射させたとニュースで言っていた。

ホテルニュージャパンには撫養小学校6年1組でクラスメートだった金沢君が宿泊していたらしい。彼は城南高校から東京の私立大学を受験するため上京していたのだろう。もちろん無事だったが後に母から聞いて少なからず驚いた。今もって覚えているぐらいだから。

ホテルの跡地は長く更地だったのだろうか。場所は港区の赤坂見附駅から徒歩1分。超一等地。そうと知ったのは2002年頃だったと思う。当時勤めていたD社が目の前のビルに東京オフィスを移転して毎日ベランダでタバコを吸いながら跡地を見ていたときに聞いたのだと思う。

ちょうど新しいビルの建設中だった。敷地の道路側には浅い池ができた。火災で亡くなった方が水を求めていたからだろうかと同僚と話した。火の熱さから人がホテルの窓から飛び降りる映像を当時テレビで見たような気がする。29年。十分に長い時間だが忘れてしまうには短かすぎる29年。

上勝TV第3回 (2月7日・月)


上勝TV第3回の配信が終わった。今回の準備に技術を統括するM君は日曜の午後にやってきて入念なセッティングを行った。今回もディスプレイ2台。Core i7の4面にファンが付いている凄いマシン。私はM君のセッティング終了を待たず「響」の練習に出てしまったが。

今回は新しい試みを行った。M君はパーソナリティとゲストの2画面を同時に画面に出した。さらにタイムライン(TL)をもっと読もうと方針を立てて新しい体制を組んだ。一つはパーソナリティのルパンをTL担当と役割を明確にしたこと。それと拾うべき発言をスカイプで連絡するようにしたこと。

今回は映像担当のN君が仕事で来られずT氏がカメラ操作を行った。カメラワークでも前回の反省を生かしたチャレンジをして少し動きのある映像にしてみた。写真やカタログを写す手元カメラもT氏が操作。忙しい役割をうまくやってくれた。N君は来られなかったことを悔しがっていたほどだ。

番組前にはカエルのぬいぐるみに手書きのボードを持たせた告知をしたことも新しい試み。視聴者のピークは102人。ツイートは途中でチャットシステムが不調になったが1,606。TLは前回よりもゆっくりでツイートを拾う試みはうまくいった。Ustream番組のノウハウを得ている実感がある。

過去のメガネ (2月6日・日)


メガネを掛け始めたのは中学1年のときだと思う。もしかすると小学校6年の終わりだったか。確か我が母校である撫養小学校合唱部の演奏を鳴門市文化会館に母と聴きに行ったとき舞台の文字が読めず近視だと分かった。そのとき母が「読めないの?」と驚いていたことを覚えている。

中学1年の教室は3階にあった。コンクリートの廊下から中庭を覗くと掛け始めたメガネが下に落ちそうな錯覚を覚えた。今使っているメガネはフレームを広げているので下を向くと本当に落ちる。スポーツをするときなどは耳掛けにゴムの補助具を付けて落ちないようにしている。

さて中学1年のメガネから今度で何本目だろう。中学のときは確か銀縁だったと思うが大学に入った頃には茶色いセルの大きなメガネを掛けていた。大学時代はジョンレノンを気取って丸メガネのときもある。会社に入って買い換えたこともあるだろう。

J社を辞めた1998年か1999年に緑淵のメガネを鳴門で作った記憶がある。でも福岡から東京に行った頃に壊れた。フレームの下を糸で支えているだけの構造だった。それからメガネは耐久性を重視している。数えてみたら次で8本目か9本目。平均4〜5年で掛け替えている計算になる。

iPhoneアプリの企画 (2月5日・土)


金曜。妻と徳島市での会議に向かっている車の中で昼食をどうしようという会話をしながらiPhoneアプリのアイデアを思いついた。勝浦から徳島に入ってまで話をして私の中でアプリのユーザーインタフェースのイメージと操作手順ができあがった。これは便利ではないかと妻と盛り上がって。

深夜になってツイッターに次のように書いてみた。「iPhoneアプリ開発が得意な暇な人いないかなぁ。いいアイデアを思いついて事業化したいと思っているんだけど。ソフトウェア業界で私はPRも法律も、経験と人脈はあるのに開発だけはできないんで。」そしたら4人からコメントをもらった。

1人はあるツイッター仲間に相談したらどうだろうというものだった。その仲間はiPhoneアプリ開発を手がける大学関係者。2人目の人はiPhoneアプリ開発に長けた人を知っているから紹介するよとダイレクトメッセージで言ってくれた。彼も試作してもらったことがあるらしい。

今日になって北海道に住む友人がコメントをくれたし東京に住む友人もダイレクトメッセージを送ってくれた。最初の1人を除く3人がJ社時代の後輩たち。問いかけに反応が返ってくるツイッターの面白さとともにソフト開発方面での私の仲間の存在を改めて認識した次第。みんなありがとう。

メガネ (2月4日・金)


メガネを買った。今日はフレームを選び視力検査をしただけで手元にはまだない。初めての遠近両用のレンズ。そもそもメガネを買い換えようと思った第一の理由が老眼にあった。本を読むときも携帯電話を見るときもメガネを外して見ていた。40歳頃始まった老眼は最近急速に進んだのだ。

買い換えた理由には経年変化が激しくなったこともある。よくレンズが外れその度にアロンアルファでフレームに固定してきた。耳掛け部分のプレスチックが割れて何年も前から芯の金属から緑青が覗いている。フレームを調整しようとしたらプラスチックにヒビが入ったり。

今日のメガネ店で今のメガネを何年使っているかと問われ7年以上と答えたが調べてみたら8年半前の2002年8月に買い換えていた。あれは千歳烏山駅からすぐの線路沿いにあった店に妻と行って買ったのだった。度付きサングラスも同じ店で買ったはずだが昨年どこかでなくしてしまった。

さてメガネを選ぶにあたって前の前のメガネがそうだったのだが私は金属アレルギーで耳の前がかぶれるのでフレームの材質が最重要。手荒に扱って壊れないことも大切。レンズが外れやすいのは論外。そんな条件で選んだ結果ちょっと高いがレンズ付33,800円のフレームにした。

クラブのコールサイン (2月3日・木)


Facebookにプロフィールを書いていて思い出せなかったのが高校時代に所属していた物理部のアマチュア無線のコールサイン。中高時代の同級生BPQにメールをして訊いた。忘れていた中学時代のサブコールも教えてくれた。私は今までアマチュア無線クラブで6つのコールサインを使った。

コールサインとは呼出符号とも呼ばれ無線局はもちろん放送局にもある。例えば徳島の四国放送はJOJR。先頭のJは日本に割り当てられた記号で2文字目からは総務省が割り振っているのだと思う。アマチュア無線の場合は最近は例外もあるのだが日本ではJH5ASQのように6文字である。

さてツイッターにも使っているJH5ASQは私個人が総務省から与えられているコールサイン。数字は地域を表し5は四国で近畿は3。クラブ局は後半3文字の先頭がYまたはZで始まる。私が訊いた高校時代はJA5YIVだった。中学時代のクラブはJA5YFB。もう一つJA5YGPもBPQが教えてくれた。

大学はJA3YCZ。J社にはJA5ZLUというクラブがあった。中高時代に今は亡きJA5MAJが作った地域クラブ「日本ハムフレンドクラブ(JHFC)」に所属していてここはJA5YPH。活発に活動したのは大学のJA3YCZと中学のJA5YFB。高校時代はあまり熱心にクラブ局で無線運用はしなかった。

消防点検とN君とバスケットと甥の手術 (2月2日・水)


火曜。2月1日なので消防団のポンプ点検。この日は2手に分かれてポンプ点検とともに貯水槽の水量確認に。リストを見ると10箇所ぐらいある貯水槽のうち私たちは2箇所に行って確認。場所と開け方を徐々に覚えないといけない。ポンプ点検のうち1箇所は凍結の危険があってパス。

さて帰宅して夜は広島から移住したJ社時代の後輩N君を呼んで焼肉を食べた。現在のことや将来のことで気になっていたので諸々の情報交換を行った。かつてのキャンプ仲間。いつも深夜まで話していたのに今や眠いからと22時頃帰ってしまう。それでもそれなりに話せたので良かった。

N君と妻と3人で飲んでいたらピンポンと来客。出てみればY君。この時点で気温は多分0度ぐらいだった寒空に短パン姿。バスケットボールの参加者が少ないからとお誘いだった。事情を話してボールだけ貸し出し。私は年末から所用で3週連続欠席。その後2週続けて寒いから欠席。ごめん。

水曜は夜になり弟からのメールで生後2ヶ月の甥の術後状況を知る。こちらから電話をして病気発見の経緯や今後の可能性について聞き法事のことも伝え。弟からの甥の写真を見たが生後2ヶ月は小さすぎる。これで10時間もの手術を受けたとことに母ではないが泣きそうになる。

弟と甥と母 (2月1日・火)


東京にいる弟の生後2ヶ月に満たない息子が手術を受けた。10時間に渡る大手術だったらしい。前日に弟とは話をして症状について聞いていた。鳴門にいる母は鼻から管を通された孫の写真を見て泣いていた。こんな小さいのにかわいそうだと。その写真を私は見ていないが。

私にできることは何もない。18歳になる18年後の彼の姿を想像するだけだ。私には何もできないので楽観することにしている。そう弟にも勧めたが親の立場では余裕がない様子。それも当然か。余裕がないから余裕を持たないといけないと思いつつ今の彼にとっては余計なお世話だ。

来週末は亡父の七回忌。法事は実家でやる予定だったが母が東京に行くことになり準備ができないからと場所をお寺にしたいと言う。別に構わないと答えたが母も余裕をなくして私を非難する。弟の飛行機が間に合わないから調整が必要なのにあなたは何もやらないと。やれやれ。

弟には甥の病状を聞くついでに法事の話もした。弟が飛行機の時間を合わせることになった。それを母に電話で伝え。何で私が間に入っているのだろうと考えつつ冷静なのは多分私だけなのだろうと納得することにした。母はともかく気が休まらないだろう弟夫婦のことは少し気にしてはいる。


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© 2011 Takashi INAGAKI