2008年8月

『偽善エコロジー』 (8月31日・日)


武田邦彦『偽善エコロジー―「環境生活」が地球を破壊する』(幻冬舎新書)を読んだ。『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』に興味を持ちつつ敬遠していたのだが著者は同一人物だった。内容は昨今のエコロジーに関するウソを解説したものだ。

例えばレジ袋は石油の余った成分で作られているからこれを使わないことがエコロジーにはならないと言う。割り箸も同じで日本製であれば間伐材を有効利用しているから使うことがむしろエコロジーだと。割り箸として利用できない間伐材はゴミとなって環境には逆に悪いらしい。

あるいはダイオキシンが有毒だとの証拠は何もなく人間にとってはほぼ無害だとか生ゴミを堆肥にするのは危険が大きいとかプラスチックのリサイクルも毒物が含有している可能性があるから危ないとか。家電リサイクルが実際はほとんど詐欺に近いこととか。

あとがきに著者独自の数字が批判されがちだと書いているが本書は敢えて数字を避けたと思われる。それと環境ゴロたちへの批判のあまり表現がやや厳しく論理が弱いように読める。逆に分かやすくあっさり読める。環境問題のウソを知るきっかけとしてはいいかも知れない。

我が鳴門 (8月30日・土)


実家がある鳴門市の学校に私が通ったのは小学校までだったしJ社に入社してからも遊ぶのは徳島市ばかりだったから私は鳴門のことをあまり知らない。小学校の頃に自転車で走り回った地域と大人になって車で行くようなところだけしか分からない。

子供の頃に阿波踊りは父に連れられた行った記憶があるが花火は実家の2Fベランダから見るものだった。そんな私が今回の徳島で32年ぶりに鳴門の阿波踊りを見に行ったときに気になったのは観客の中に知り合いがいないかどうかだった。

まるで映画「眉山」だ。無料演舞場の大道銀天街は人も少ないし探しやすい環境にはあった。でも女子は面影がなくなっているだろうから難しそうだ。結局そういう目で人を見て親友だったM井ともう一人M田しか見つけられなかった。

私がいた頃は撫養小学校の1学年は4クラスだったが最近は2クラスだと聞く。黒崎など3校との併合も議論されているらしい。ということは鳴門に住み続けている人は少ないのかも知れない。人もおらず街も変わり。故郷はただ寂れた通学路周辺にしか感じられない我が鳴門。

集中豪雨 (8月29日・金)


昨日は午後から雨が降ったり晴れたり変な天気だった。降るときは土砂降りだが数十分で止み晴れる。でも1時間ぐらいするとまた土砂降り。夜になって都心に出たとき雨を覚悟したが駅に歩く前半に小雨が降っていただけだった。

ところが深夜になって八王子では土砂崩れが起きるほどの雨が降ったらしい。愛知の岡崎では1時間に147mmの雨が降り家で寝ていたはずの3人が死亡または行方不明だとか。同じ都区部の人でも凄い雨だったと言っている人もいるのだが私の自宅周辺は大したことがなかった。

それにしても集中豪雨。川の氾濫も悪いことばかりではないと書きもしたが神戸の川の事故後に東京ではマンホール事故があった。雨の降り始めなのに上流の集中豪雨で一気に水が流れ何人かが亡くなった。昨今の集中豪雨を軽く見てはいけない。

昨日の岡崎での集中豪雨では就寝中の1〜2時間で天井まで水が来たそうだ。足が不自由だったりすればどうしようもないかも知れない。とりあえず東京の自宅はマンションの3Fだから安心はしているが今も凄い雷と雨の中にいて実は少し怖さを感じているところ。

阿波踊りに感じる寂しさと焦り (8月28日・木)


私が子供の頃の夏休みは7月20日前後から8月31日までだった。つまり今週で夏休みは終わる。夏休みが終わる寂しさがあったかも知れないが最終週はむしろ溜めに溜めた宿題を一気にやっていたためアドレナリンが出ている状態だったような気がする。

私にとって夏休みの寂しさは阿波踊りである。鳴門市の阿波踊りは例年8月9日から11日の3日間でこれは私が物心ついた頃から変わらないのだがちょうど夏休みの中日の3日間に当たる。当時2Fの自室で窓を開けると遠くに阿波踊りの鉦の音が聞こえていた。

今回の帰省では鉦の音が聞こえなかったがそれは近所の田んぼに建て売り住宅やマンションが建って音が遮断されたからなのかも知れない。それでも私にとって遠くに聞こえる阿波踊りの鉦の音は夏休みが半分終わったという意味だった。

阿波踊りの鉦の音に楽しい夏休みが半分過ぎたことを思い寂しさと宿題を何もやっていない焦りを感じたのは今も同じで遠くから聞こえてくると寂しさと焦りが入り交じった感情が込み上げてくる。私にとって夏休みの寂しさは最後の週よりも阿波踊りの鉦の音とともにある。

剣山の記憶 (8月27日・水)


私が前に剣山に登ったのは小学校3年か4年のときだった。弟が3歳か4歳に当たる。母によると弟は数日前に熱を出し医者から「休みはどこも行けませんね」と言われたそうだ。それで母はリフトを降りて頂上には行かず弟を抱いて東屋みたいなところで休んでいたと言う。

私の記憶は違っていて母と弟も頂上に行ったはずだ。ただし頂上に2人がいた記憶がない。頂上に行く途中で違う道から登ろうと父が言い出して母と弟は本道を行き私と父だけが回り道を通ったはず。だから2組に分かれて頂上に向かったという記憶なのだが。

父と私が通った道は背の高い草に覆われた細い道だった。そこを行こうと言い出した父に母が文句を言っていた記憶がある。今回行ってその道がどこか推測できたが草は高くなかった。当時の私の背が低かっただけのようだ。もしかしたら母と弟はそこで引き返したのだろうか。

そして頂上は前回の記憶と違っていた。小さな小屋を背にした狭い場所だと思っていたら今は整備されて四方に視界が開けていた。あのとき「こんな晴天は年に何度もない」と誰かが言っていて父が喜んでいたが今回も晴れていた。それにしても人の記憶とはいい加減なものだ。

※昔のアルバムのデジタル化過程で1973(昭和48)年5月5日と分かりました。(2020年6月19日追記)

太陽神と天照大神 (8月26日・火)


昨日書いた佐藤愛子『私の遺言』を妻が読んでいるときたまたま早朝で妻は日の出に手を合わせたのだそうだ。そうしたら本の後半に太陽神信仰の神道者の教えが出てきてびっくりしたと言っていた。それは太陽を拝むことの正しさを神が妻に伝えようとしたのだと思う。

元々妻は巫女体質で霊感があるらしい。だからなのか先日徳島で国府にある天石門別八倉比売神社に行き「卑弥呼の墓」に手を合わせた直後に変なことを言った。「天照大神」は「アマテラス」ではなくて「○○○」と読むのだと。天照大神が今そう言ったと。

徳島に行く前だったと思うが妻はもっと変なことを言った。私の名前は○○○と。前に書いたアマテラスではない。ここには書かないが初めて聞く名で明らかに神名である。守護霊なのか憑依した神が名乗った名なのか。それで妻が神山に行くのはこの神の使命だと言っている。

その使命は今回徳島にいるときに聞いた。剣山に登った日の前後だった。太陽神である天照大神は実は現代にいて妻は与えられた神名をもって彼女に仕えるのだとか。その彼女が誰なのか私は聞いたがこれも書かない。荒唐無稽だが私は少し信じている。

『私の遺言』 (8月25日・月)


これも妻が買った本。著者は詩人サトーハチローの妹にして作家。読み始めたら止まらない。電車で読んで乗り過ごしかけたこと3度。内容は1975年に建てた北海道の別荘で起こる霊障とそれを鎮めるための30年に渡る悪戦苦闘の記録である。佐藤愛子『私の遺言』(新潮文庫)。

最初に霊障を相談したのは美輪明宏氏で24歳当時からの江原啓之氏が何度も登場する。霊媒に降りた霊と会話する審神者(さにわ)や神道者など様々な霊能者による浄霊。分かってきたのは惨殺されたアイヌと著者の祖先の怨念が霊団になっているということだ。

北海道の別荘はラップ音や屋根の足音に電気の点滅さらに換気扇が外されテーブルの上に置かれているとか車のキーがソファの間に隠されていたとか。東京の自宅まで霊障が始まりベッドに寝かせた生後数日の孫の向きが変わっていたり鳥籠の水がなくなったり犬が死んだり。

自宅での霊障は前に壊した祠に祀られていた狐の霊によるものだとか。数々の霊能者の解説による死後の世界も分かりやすい。死や生きる意味を考える上で素晴らしい教材かも知れない。ただの際物でないことは請け合う。妻が言うように騙されたと思って一読をお奨めする。

北京オリンピック (8月24日・日)


8月8日pm8時に始まった北京オリンピックが閉幕した。日本選手で印象に残るのは北島康介の100m/200m平泳ぎ2連覇。柔道とレスリング女子とソフトボール。男子400mリレーの銅メダル。ただし野球は4位。3位決定戦で気迫を感じたのが一部の選手だけだったのは意外だった。

それより主催国の未熟さがこれほど指摘されたオリンピックはなかっただろう。テニスでは観戦マナーに中国選手自身が怒ったとかバレーでは日本に対するブーイングがあったとか。自国への応援が多いのは仕方ないとしても応援の節度は20年経てば変わるのだろうか。

もっと問題なのは観客が組織的に動員されていて応援さえ政治的だったということだ。サッカーでは日本を貶める応援を中立的なスタッフが先導したという報道もある。これらは一部で報じているだけで日本の大マスコミの腰の引け具合も目立つ。

さらに開会式の53民族の子供が実は漢民族だったとか期間中のデモ申請が1件も許可されず逮捕された人がいるとか。スポーツ文化が成熟しても中国のこうした国家的な偽装は20年経っても変わらないかも知れない。それをマスコミが一緒になって偽装した後味の悪さ。

中学1年の鳴門市阿波踊り (8月23日・土)


32年ぶりに鳴門の阿波踊りを見に行ったことを書いた。その32年前。私は地元の撫養(むや)小学校から徳島市にある徳島大学教育学部(現・鳴門教育大学)附属中学校に進学した。撫養小学校から行ったのは後に東京大学に進む酒屋のS田君と私だけだった。

高校時代になれば小学校時代の友人ともキシャで会ったりするのだが中学校はほとんどの友人が地元の鳴門第一中学校に進学したから地元との関係は希薄だった。S田君とはさほど親しくなかったし中学ではすぐに友達ができてますます地元との縁は遠くなった。

そんな中学1年の夏休みになぜ地元の阿波踊りを見に行ったのか覚えていない。もしかしたら旧友に会うことを期待したのだろうか。ともかく小学校時代の友達とは会った。それが誰だったかは忘れたが3〜4人と汽車公園で話をしたことを覚えている。

そのとき話したのが小学校のクラスメートだったY永さんのこと。中学になって人気だと聞いた。小学校時代の彼女は子供だったが確かにかわいかった。だから「そりゃそうだろう」と答えた。実はそのとき公園にY永さんがいた。でも話しかけたりはしなかった子供だった私。

雨に濡れて (8月22日・金)


昨日A社から帰ろうとした18時過ぎ。稲妻が光り18時半頃には小雨が降り始めた。駅まで走って事なきを得たが自宅側の駅からが問題。妻にメールすると自宅付近でも雨が降り始めたと。しばらく駅で待機したもののビニール傘を買って土砂降りの中膝下を濡らしながら帰ってきた。

帰路は住宅街だから雷に打たれるとは思わないのだが10秒ごとに3〜4度光る稲妻は怖い。瞬間パッと明るくなりドドーンと雷鳴が響くとドキンとする。マンションまで来て思わず通常の入口より手前で屋根のある敷地に入ったのだった。

今日は傘を買ったから上半身は濡れなかったが思い出すと雨の中をずぶ濡れになって帰ったことがある。高校2年か3年のとき。初夏か秋だったと思う。鳴門から徳島の高校まで約15kmを自転車で通っていてその帰路だった。カッパがなく雨の中を約50分走ったのだった。

覚えているのは現在の国道28号の大津あたりで鳴門工高と思しき男子3〜4人組の自転車とすれ違ったとき。ずぶ濡れの私に彼らが「おぉー」と歓声を上げたのだった。よほど凄い格好だったのだろう。あれも若さの一つだったとは言える。

北京オリンピック金メダルの女子ソフトボール (8月21日・木)


北京オリンピックにはさほど関心もなく夜のニュースで結果を見る程度。公式競技として最後になる女子ソフトボールも注目していたわけではなかった。だから昨日は家にいて朝に試合をしていたのは知っていたが夜になっても試合をしていたから朝のは録画だったと思っていた。

ところが夜の中継を少し見ていたら1日で2試合目だと言う。朝の試合は準決勝で対米国。夜の試合は3位対4位の試合の勝者と戦った対オーストラリア。朝の試合でも夜の試合でも投げていたのは同じ上野由岐子 投手。どちらも延長戦で1人で21イニングを投げたらしい。

それを知って見てられなくなった。いや見ているのだが連投の苦しさを思い早く終わらせてあげたいと思ってしまい。朝の試合で延長9回。夜の試合では延長11回に勝ち越しされ直後に追いつき12回にサヨナラ。これで今日は決勝で対米国。2日で3試合28イニングだ。

今日は1回裏の満塁のピンチから見始めた。これは大敗だとチャンネルを変えたが戻したら0対0のまま。そこから本気で見始めた。6回も1死満塁のピンチで内野フライ2つ。最後は気迫に押された米国が自滅したように見えた。テレビを通しても感じた気迫に心から感動しているところ。

渋谷の猿 (8月20日・水)


東急東横線の渋谷駅に猿がいたそうだ。夜のテレビニュースで何度か映像を見た。そのうち逃げ出して渋谷駅の外に出たとか。警察官が何十人も出て網を広げて捕り物が行われたらしい。18日には世田谷でも目撃されていたらしく同じ猿の可能性もあるそうだ。

それにしてもなぜ猿を捕まえようとするのだろう。猿がいるねぇと言っていればいいようなものを。自然との共生とか言う割に都会では自然を排除しているように私は感じるのだが。警察の人もこんなことに駆り出されて気の毒だと思う。どうして放置しておいてやれないのだろう。

象や虎なら人の命に関わるから捕まえるのは分かるが相手は猿だ。確かに猿は悪さをする。でも引っ掻くとか噛みつくぐらいで包丁を持って人を刺すことはないだろう。子供が被害に遭う危険を否定はしないがそれならカラスや飼い犬の方が数も多いし危険が大きいと思う。

たった1匹。餌をやらず飼い慣らさず無視しておいてやれば彼も山に帰るかいずれ死ぬだろう。無視できず猿と遊ぼうとするバカがいるから捕まえようとするのだろうか。このニュースには釈然としない。誰か都会の猿を捕まえなければならない理由を教えてくれませんか。

日焼け対策 (8月19日・火)


ここ数年のことだが日中に強い太陽光を浴びると夕方ぐらいから目が痛くなるようになった。紫外線の影響だと思う。それで夏はサングラスが欠かせないのだがメガネとサングラスを頻繁に掛け替えるとそれはそれで目が疲れる。今回の歯の痛みはそうした目の疲れから来たのだと思う。

私のこの推測について訊いてみると徳島の歯医者は「分かりません」と言い東京の歯医者は「多分違います」と言った。目の疲れと歯の痛みはあまり関係ないらしい。むしろ目が疲れるほどに体力が低下していたということなのだろう。

それはそうと昨今の紫外線は危ない。オーストラリアでは子供を日中外で遊ばせることは児童虐待に当たると聞いたことがある。GWには特に腕が真っ赤になり痛くて仕方がなかった。私が紫外線に弱くなったのは年のせいか紫外線量が増えたせいか。

ともかく紫外線防御のため今回の徳島では気を遣った。川遊びのときは腕と肩と足の甲に日焼け止めを塗った。運転するときは二の腕まで隠す長手袋。田舎のおばさんがやるようなものを買って着用した。そういうわけで目以外の日焼けの影響は今回は少なかった(はず)。

『日本語はどこからきたのか』 (8月18日・月)


この著者が先月亡くなったことは大きなニュースになっていた。それまで私はこの人の名前を全く知らなかったのだが友人M嬢のブログでも紹介されていて興味を持った。大野晋『日本語はどこからきたのか―ことばと文明のつながりを考える』(中公文庫)。

ですます調の平易な文章で内容も中学生向けと思われる。日本語の起源を探すためにまず言語の類似を調べる方法が分かりやすく書かれている。それによると単語同士の類似もある程度必要だが何より語順や文法が似ていないと言語の類似は言えないらしい。

単語の類似でも古い言葉で比べる必要がある。日本語のh音は過去にはf音でさらにp音に遡るらしい。今でも沖縄喜界島ではh音をp音で発音するそうだ。こうした分析の上で南インドのタミル語という言語と日本語との類似が細かく説明される。

調べると日本とタミルには正月行事や人を葬るための甕棺の形状など文化的な類似もあるらしい。先日読んだ宮本常一『日本文化の形成』で弥生人は船に乗って来た海人という説にも合致する。これは知的興奮を呼び起こす名著だと思う。

携帯電話のバッテリー (8月17日・日)


今回の徳島では妻の携帯電話がトラブル続きだった。通話が5分程度になると電話が切れる。しばらくするとまた通話できる。単純な充電不足かと思い一旦実家に戻り充電し直してみたり。近くのドコモショップに持ち込んだら充電器の容量が5%にまで減っていたらしい。

オフィス(といっても自宅だが)の代表電話は全て妻の携帯に転送するように設定していたから土日を除いて1日に何件かの電話がかかる。中には仕事の込み入った内容のものもあるが5分ぐらいで切れてしまう。仕事にも支障が出ていた。

そこで途中から私と妻の携帯電話でFOMAカードを交換した。つまり私の携帯電話の筐体を使って妻の電話番号で発信や着信を行うのである。でも電話番号帳は筐体の方に入っているから妻が電話を架けるときは自分の携帯を見ながら私の携帯を使う。ややこしい。

もっとややこしいのはメールで私の携帯に妻宛のメールが届く。でも使い方が違うから妻は私の携帯でメールを打てない。そこで私が返信をするがそれは妻の名前で相手に届く。途中から自分たちでも訳が分からなくなった。帰京して妻がバッテリーを交換したのは言うまでもない。

歯医者の競合 (8月16日・土)


東京に戻って調べてみると徒歩10分圏内に10件ぐらいの歯医者がある。この範囲には2万人ぐらいが住んでいるはずだが10軒もの歯医者は共存できているのだろうか。ある近所の歯医者は義母の治療の際に診療報酬を不正請求したぐらいだから実は苦しいのかも知れない。

徳島は既に歯医者が飽和しているらしい。15年ぐらい前に友人の歯医者から聞いた。歯医者の開業に銀行はお金を貸さないと言っていた。歯学部入学を喜ぶ親子をテレビで見るとかわいそうになるとも。少なくとも徳島において歯医者は昔ほど儲かる商売ではないらしい。

そういえば15年近く前だが会社の隣に新しい歯医者が開業した。便利だから社員が何人も利用した。でも血だらけにされたとか何日通っても直らないとか悪い評判が立った。新規開業して数千万円だか何億円だかの借金を背負ったから無理な治療をしたのではないかと想像した。

北島や藍住など人口が増えている地域ならまだしも他では親の代からの固定客(患者)がない新規開業は無謀なのだろう。既存の歯医者だって淘汰されかねない。私には歯医者の友人が多いが彼らには技術と説明能力を磨いてさらにいい歯医者になって欲しいと思うしかない。

『侵略の世界史』 (8月15日・金)


妻が買ってきていて奨められるまま徳島に行く道中で読んだ。清水馨八郎『侵略の世界史―この500年、白人は世界で何をしてきたか』(祥伝社黄金文庫)。内容はタイトル通りでキリスト教が生まれた背景から過去の白人の侵略史である。

スペインとポルトガルが南米やアジアの人々を騙した上に殺戮して各地の文化を破壊してきたことは周知の通り。南米でブラジルだけポルトガル語なのが不思議だったが理由はこの2国が地球上に線を引いて植民地を2分割したらブラジルはポルトガル側になったからなんだとか。

イギリス・フランス・オランダによるアフリカやアジアでの侵略殺人とか米国の先住民虐殺に奴隷貿易の話とかも。奴隷船では6人に5人が死んだらしい。動物扱いなのだ。米国スポーツで黒人選手が活躍するのも奴隷時代に運動能力によって選別したからだと書いてある。

米国は自国民を犠牲にしてでも敵国に先制攻撃させるよう仕向けてきたとも。対日本も対イラクも。ある種政治的な本だし表現は誇張気味で内容自体も薄いのだが欧米人がいかに極悪非道な殺戮を繰り返してきたかは分かる。それは現代国際政治の背景を知るキーでもあろう。

近所の歯医者 (8月14日・木)


歯医者に行ってきた。義母によると一番近い歯医者は近所で評判らしいのだがおじいさんということで遠慮した。歯医者は技術で決まると思うのでおじいさんでは不安がある。でも今はお盆。贅沢は言ってられず空いているところを探して2番目に近い歯医者に行った。

近所の裏通り。行ってみると外も内も昭和40年頃の雰囲気。しかも患者が誰もいない。衛生士さんもいない。出てきたのは70歳を超えたおじいさん先生。しまったと思ったが来てしまった以上信用しよう。症状を話しレントゲンを取られ治療方針について説明を受けた。

おじいさんだけに動作は鈍いし話もゆっくりしている。でも良い歯医者の条件は技術以上にコミュニケーション能力にあることを思った。しっかり丁寧に説明してくれ質問にも模型も持ち出して答えてくれた。一気に信頼度が増してお任せすることにした。

土曜からは息子さんが診療するそうだ。患者や衛生士さんがいなかったのはお盆で予約を取っていなかったからの様子。今日は私のような急患用に開けていたのだろう。治療費も息子が帰ってからと今日は請求されなかった。私は次もおじいさん先生に診てもらいたいぐらいだ。

東京で社会復帰 (8月13日・水)


J社時代などで10日ほどの夏休みの後は社会復帰するのに時間がかかったような記憶がある。会社に行っても2〜3日は何だかボーとしているような。ところが今回は全くそんな感じがしない。徳島でも仕事をやるような感覚でいたからだろうか。すんなり社会復帰した。

今日はトイレの水漏れで管理会社に連絡。先方から何度か連絡があり一方でTOTOにも問い合わせ。同時に歯医者探し。何軒か電話をして診療日の確認も。今日は休みのところが多かったから明日行こうと思う。まだ腫れてはいるが引いてきたし痛みはほぼない。

さらに午前中は社会保険事務所へ。標準報酬月額の決定に際し提出した書類の書き方を私が理解していなかったらしく意図しない決定がされたため訂正してもらいに。提出した書類の訂正書類を出せばいいとのことで一旦帰宅して記入し再度持って行った。

社会保険事務所は徒歩10分程度の場所にあるから郵送より手持ちした方が早いと思い2往復。でも猛暑で風も吹かず片道だけでシャツがびっしょり。さてお盆。電車はいつもより空いていたからストレスは少ないはずだが徳島でいたときより何だか肩こりが酷くなったような気が。

神戸経由で帰京 (8月12日・火)


10:30頃に近所の巨大なショッピングセンターに妻と母と3人で行きお土産とお供えを買ってそのまま父の実家へ。仏壇に手を合わせ伯父伯母に挨拶。大きな鳴門金時何十本かと梨をもらった。梨は生産していないのだが近所の人が食べきれない量を持ってきてくれるのだとか。

自宅に戻り軽い昼食を取り最後の片付けをやって高速鳴門バス停下へ。13時過ぎに家を出たが停留所下に13:15。トイレに行ったりして停留所に行ったのは13:20。もう少し余裕をもって行動すれば良かった。でも私が乗る神戸空港行13:25の2号車が来たのは13:33。

2号車だからか乗客は1/3ほど。トイレのないバスで淡路島のPAで休憩も。阪神高速が渋滞とかで一般道を経由して15:19着予定が15:45に到着。ある程度の余裕がないとバスは危ないということだ。飛行機は16:40発だから私たちは余裕があったが。

19時過ぎに帰宅。トイレの水が漏れて床が濡れている。そういう小さなトラブルはあったものの無事に帰宅して片付けを終え近所で食事を取り落ち着いたのが23時。歯の痛みは治まっているが明日は歯医者と銀行と社会保険事務所に行かないと。トイレの水漏れの対策も。

穴吹の旧家と妻の運転 (8月11日・月)


顎の左が腫れて顔の形が変わってしまった私。歯医者に9時に行った。麻酔を掛けられ歯の奥を切られたらしい。歯医者の判断として切るのは早いと思っていたらしいが東京に戻って歯医者がお盆休みだと治療ができないことを考慮した様子。麻酔が切れたお昼頃に最大の痛み。

食事を取り今日は美馬市穴吹町。前回川遊びに行った穴吹川を遡った山間にある貸し家屋の見学である。美馬市役所に一旦行き役場の方の車について20分ほど。行ったら大家さん夫妻も来られていて家屋の中を案内してもらいお茶をいただき世間話も。

明治10年築。重厚な30cm角や直径20cmの梁や柱が時代を感じさせる。ただし内部はリフォームされていて我が実家とさほど変わらない。トイレも水洗が男用と和式と洋式の3カ所。裏に2階建ての納屋と畑。500坪ぐらいあるだろうか。向かいの山と谷を臨む景色が素晴らしい。

さて穴吹の街までは高速を使い帰りは一般道。穴吹の街から山方面は私が運転したが穴吹までの往復は高速も含め妻が運転した。前の車について行けばいい道なので楽だったはずだが本人は手に汗をかいていた様子。運転は20年ぶりだそうだ。これも移住の準備というわけで。

徳島ラーメンと鳴門の阿波踊り (8月10日・日)


歯が痛くて夜中に起きてパンを食べて薬を飲んで。お昼は13時頃「いのたに」で徳島ラーメン。今日も混んでいた。神戸空港までのバスチケットも買ってきた。今回は250円安いので「高速鳴門」バス停から乗る。通りがかった近所のGSで172円/Lだったので給油。20L。燃費13.15km/L。

午後は鳴門工高の試合を前半だけ見て昼寝をしたが歯が痛くて目が覚めた。夕食後19時過ぎに家を出て鳴門の阿波踊り見物へ。徒歩10分ほど。私が最後に鳴門の阿波踊りを見たのは中学1年のときだから32年ぶり。地元の仲間に会ってベンチに座って話をした記憶がある。

今日は無料演舞場にいたら小学校時代に一番仲が良かったM井に会った。高校時代通学のキシャで会ったかも知れないが話をしたのは小学校以来だと思う。その後J君に偶然会ったり昨夜J邸に妻が忘れた携帯虫除けをもらい受けにZ嬢と連絡を取って桟敷入口まで行ったり。

有料演舞場の方に行くと夜店も多く人がいっぱい。中学生グループや浜崎あゆみファッションの女子多数。無料演舞場の方はファミリー中心。人垣は立っている人は一列ぐらいだから十分見える。徳島市の有名連もいくつか踊っていてレベルが低いわけでなく意外に楽しめた。

歯医者と鳴門でバーベキュー (8月9日・土)


夜中にも起きてバッファリンを飲んだが何となく歯が痛い。なので思い切って歯医者に行った。子どもの頃よく行った歯医者。今は息子が継いでいる。彼のお姉さんのM和は小学校のクラスメートで高校まではときどき話をした。彼女も歯医者で結婚して2人で開業しているらしい。

さて左下の歯。神経が腐って膿がたまっていたらしい。痛み止めで済む状況ではなく帰京までに顔が腫れるほどになるだろうと言われたので応急の治療をしてもらった。サングラスとメガネを頻繁に掛け替えて運転すると歯にくるというのが私の経験則。2001年と2度だけだが。

治療は受けたし薬も飲んだが何となく痛いので昼寝をした。夕方起きて今日はJ邸でバーベキュー。16時過ぎにスーパーでビールを買ってから母に送ってもらった。今日の趣向はステーキ肉を焼いてからハサミで切るスタイル。M嬢の誕生日でスイカをくり抜いたフルーツも。

今日は遅れてT氏も登場。夜になり家の中でZ嬢M嬢が出演したY氏率いるバンドの演奏をビデオで見た。本人たちが言うほど悪くなく格好いい。さて23時頃帰宅したが歯痛は激しくなるばかり。薬をビールと一緒に飲んだのが悪かったのか。再びバファリンを飲んだところ。

剣山 (8月8日・金)


10:15出発。近所のGSで174円/L。燃費11.95km/L。今日は母と3人。妻の希望で剣山。四国第2の標高(1955m)の霊山である。行きは高速で貞光から438号線。途中で見つけた忌部神社に寄り12:30頃通りかかった一宇のうどん店「田舎でくらそうよ」で釜玉を食べた。美味。

剣山へは駐車場から登山道もあるが私たちはリフト。往復券1,800円で標高1,420mから1,750mまで約15分。結構長い。小学校3年か4年の頃乗ったことがある。母によると弟が熱が下がった直後でリフトには乗ったが頂上には行かなかったらしい。私は父と頂上に行った記憶はある。

さてリフトを下りるとルートは2つ。距離900mの短い方を選択したら登りが急で母が心臓が苦しいと何度も立ち止まる。階段20段とか数十m毎に休憩。ここで死なれては困ると私も根気よく休憩に付き合い扇子で母を扇いで私だけなら25分ぐらいの距離を2時間かけて登った。

頂上は素晴らしかった。各方向に雲はあったが山の稜線はほとんど見通せる。ちょっと感動。戻りは1,260mの別ルートから下りたが母は全然大丈夫で35分でリフト乗り口まで来れた。帰りは17時頃剣山駐車場を出て木屋平・神山経由。19時過ぎにクレメントで中華。

佐那河内から神山そして鳴門の花火 (8月7日・木)


イルローザで手みやげを買って神山へ。昨日見た佐那河内物件の内見を日曜日で依頼して現地周辺を見ようと途中寄ってみたら先客が2人。声を掛けたら物件を管理している不動産屋さんだった。ついでに家の中を見せてもらい周辺も案内してもらった。日曜の内見はキャンセル。

値段はナンボでもええと言われたし意外に周辺環境が良く心が動く。さて神山ではまずは役場でビジネスの話。神山に移住するという話を東京ですると田舎での農ビジネスへの協力を依頼されたりする。そういうビジネスについて町長と副町長と総務課長に話を聞いてもらった。

続いて移住支援活動を行っているNPOを訪問。当座の賃貸物件を外からと売り地を2件見せてもらった。義母もいるから山の上よりバスが通る幹線道路近くがいいかも知れない。農地は登録された農業者しか買えない法規制があるが農業者たる従兄弟の協力を仰ごうかと考えたり。

夕方Z嬢宅経由で実家に戻り今日は鳴門の花火大会。Z嬢とT君/Cちゃんと妻と歩いて撫養川へ。遅れてJ氏合流。花火後夜店を少し楽しんでからT君/Cちゃんは実家でお風呂。M嬢がここで合流。妻とZ嬢M嬢は22:30を回って女3人だけで飲みに行った。私は疲れからか歯が痛い。

佐那河内と気延山 (8月6日・水)


11時に役場集合。先日訪問したT石が連絡をくれて今日は佐那河内村内の物件の見学。村内の物件を扱っている不動産屋さんの車でT氏と妻と4人で回った。まずは大河原高原北斜面。途中から凄まじい狭さと急坂の道の先にログハウス1棟。手作りの2F建てに山の林付き。

意外に良かったが水道がない。沢水もない。雨水を貯めるだけらしい。安くて趣はあるが山奥すぎる。2件目は10棟ぐらいが並ぶ別荘地。村の中心や遠くの山を見通せる。吹き抜けの広い2LDKで畑にできるほどの広い庭。4台は停められる駐車場。だが3人で住むには間取りが悪い。

3件目は新しい国道横。古い瓦葺きに果物倉庫。300坪の土地。南向きは荒れてしまった元畑の先に低い山の斜面が続く。国道脇なのに隣家が見えない山の中の風情。水道もある。国道沿いだからバスも通るし義母と一緒に生活するにはいいかも知れない。ただし値段が高い。

その後は村内でうどんを食べ御間都比古神社と嵯峨天一神社。国府に戻りGWに行った気延山の天石門別八倉比売神社。今回は奥の「卑弥呼の墓」にも行ってみた。近くの徳島市立考古資料館と横穴式の矢野古墳にも。帰りに矢三のYAMAKAKUさんへ。おいしいコーヒーを飲んだ。

神山探索 (8月5日・火)


午後出発。まずは鳴門花火大会の観戦ポイントを確認。以前見た頃と打ち上げポイントが変わっていて「広報なると」によると立ち入り禁止区域もある。車で流しながらチェック。妻の携帯電話が充電不足ということで一旦帰宅して次は今日も佐那河内経由で神山へ。

昔は三菱石油だったはずの沖浜ENEOSで給油したら184円/L。相場は176円/Lと母から聞いていたのでびっくり。ちなみに372km走行で30L補給したから燃費は12.4km/L。GWのときより悪い。原因をいろいろ考えたらエアコン入れっぱなしだからなのかも知れない。

さて神山では昨年7月に訪れて神山に興味を持つきっかけになった焼山寺山へ。途中から雨。結局焼山寺へは行かず途中で引き返し鮎喰川北岸を探索。GWに通りがかった空き家に立ち寄り周辺をチェック。続いて南岸の行ったことのない路地に入り奥の里山を探索。

夕方になり鮎喰川沿いを下り石井経由で帰宅した。神山の阿野地区で遠回りもしたから時間がかかったが佐那河内経由の方が早いような気がする。田宮街道も分かってきた。ところで鳴門は雨が降らなかったらしい。神山でも局地的な雨だった様子。

仕事と鳴門工高の試合と川内往復 (8月4日・月)


今日は主に仕事の日。妻は朝から1日中PCに向かって23時過ぎにようやく終わったらしい。私は午後に何件かメールしたほか電話をして徳島での仕事のアポ取りをし午後はJ社本社横にある健康科学総合センターに入居しているT社長を訪ねた。行ったらZさんもいてびっくり。

ここでは以前に書いた事業アイデアについて協力を依頼。依頼というほどではないがアイデアを聞いてもらい技術リサーチを打診した。T氏の仕事の技術も聞く。それからZさんが帰る時間になって同じビルにいるというY嬢を3人で突然訪問。いや驚かせてすみませんでした。

その前には高校野球の鳴門工高戦をテレビ観戦。鳴門工業は近所だし「響」で校歌を歌ったこともあるし子供の頃に甲子園観戦ツアーに行ったこともあって2回までと9回の攻防を見た。2対1から9回表に2対3と逆転され9回裏に逆転サヨナラ。高校野球ならではのドキドキを味わった。

夜は借りていたキャンプ用品を返しにY氏/M嬢宅とK氏宅。K氏宅では居間で1時間ほど情報交換。ところでY氏/M嬢宅は何度行っても迷う。今日は暗くて目印の看板が見えず一旦通り過ぎ引き返したものの左折ポイントを間違って行き過ぎて。今日の外出は川内の往復2度だけ。

穴吹川キャンプ 2 (8月3日・日)


土曜のキャンプにはJ氏/Z嬢夫妻と双子のT君/CちゃんとY氏/M嬢が日帰り参加。F君と社長のT氏と広島から来たN君が泊まり。Z嬢の誕生日でケーキも食べたしT君/Cちゃんのスイカ割りもやった。そのときF君が川に指輪を落とした顛末も記録しておこう。なぜか突然抜けたらしい。

ダイビングマスクなどで川底を探したが10分経っても見つからず。ところが隣にいた小学生の兄弟が見つけてくれた。岸にいたお母さんが「探してあげなさい」と言ってくれていたそうだ。あんな流れの速い石だらけの川底でよく見つかったものだ。F君がお礼にスイカをあげた。

N君は広島から夕方来たが直前に無線(430MHz/FM)で呼び出しがあり私は久しぶりの交信をした。夜はF君が指を切りながら作ったカレーを食べ1泊組の人たちと23時頃まで話して私たちは先にテントで寝た。といっても実は暑くて寝付けなかったのだが。

今朝は妻が目玉焼きなどを作ってパンの朝食。私たちがいた河原は筏下り大会中学生の部の出発点になっていて今朝は次々筏が運び込まれ窮屈な撤収になった。9:45現地発。帰りは一般道で1時間10分。午後はキャンプ用品の片づけでまた汗だくになった真夏のキャンプ。

穴吹川キャンプ (8月2日・土)


キャンプは土曜朝7:13に家を出て一旦はブルービラ穴吹付近まで行った。高速を使って50分。ここは昨年3月「響」が合宿したところだ。その穴吹川中流の河原が目的地だったが日曜の筏下り大会の出発地ということで駐車できず5分ほど下流の天神の瀬でテントを張った。

駐車場から河原まで急な階段があり結構しんどい。何往復かして荷物を運び終えY氏/M嬢から借りたタープとテントを設営できた頃には汗だく。でも荷物を運び始めてすぐF君が合流してくれ3人がかりで思いの外早く設定できたかも知れない。早速川に入って涼んだり。

穴吹川は徳島では有名な清流で昨日の深さは膝上ぐらい。浅いところは足首レベル。それでも流れはあるから大人も子供たちも流されて遊ぶ。川底は石だから私はダイビングシューズをはいて足を下流に向けて上向きに浮かんで流される。さほど冷たくなく気持ちいい。

10時半頃だったか一旦脇町のスーパー「マルナカ」に行って買い出し。途中の気温計は31度だったが買い物の帰りには35度になっていた。お昼は極暑の河原でビールを飲みながらバーベキュー。その後はとにかく暑いから夕方まで川遊びで楽しんだ。(この日記は日曜日夕方にアップしました)

体調不良とキャンプ準備と鳴門の居酒屋 (8月1日・金)


実家にいると調子が狂う。エアコンの感覚が掴めずかけると寒くなり温度を上げると暑いと感じ体調が悪くなった。寝るときも付けっぱなしだったのが悪かった。今日の午後は実家にいたが体調を整えるため敢えてエアコンを付けず汗をかきながら昼寝をした。

徳島も暑いが東京ほどではない。日中でも窓を開けていれば風が入りエアコンがなくても過ごせないわけではなく。昨日まではついエアコンに頼ったが少し自然のままでいてみようと思う。寝るときは窓を開け放してエアコンは切っておこう。

明日からキャンプに行く。準備は全て妻がやっている。今日は100円SHOPやスーパーに買い物に行ったが私はただの運転手。何も把握していない。日中は仕事を少し。夕方買い物に行ったついでに鳴門運動公園(オロナミンCスタジアム)の駐車場で妻の運転の練習も少し。

夜はY氏/M嬢宅に行きキャンプ用品を借りて母の車に乗せ母は水彩画教室に向かい私たちは鳴門で一緒に夕食を食べた。我が母校である撫養小学校に向かう途中近くにある新しいお店。大いに語り23時前に歩いて帰ってきた。でキャンプに行くので2日ほど日記はお休みします。

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© 2008 Takashi INAGAKI