2011年5月

バスケットボールと上勝TV in 美郷 (5月31日・火)


今日はバスケットボールに行ってきた。日記を見直すと前回やったのは4月14日だから1月半も経ってしまった。今日は10人が参加。初めて会った若い女性が2人。1人は現役選手かと思うぐらい上手。もう1人は彼女の友人で初心者らしい。フルコートの5対5。6分1ゲームで10ゲームぐらい。

10人いるとサボれるから意外に楽。プレイの方ではミドルシュートをことごとく外しゴールしたのは1本だけ。受けたパスを膝で蹴ってハンブルしたりリバウンドを奪ったのに次のパスで相手に渡したり散々だった。ドリブルでハンブルしたことも何回か。楽しめればいいのだが。

さて先週土曜はUstream番組「上勝TV」の取材で吉野川市美郷に行ってきた。先方の商工会には3度出向き打ち合わせを行いツイッターアカウントやFacebookページを作成してきた。今は今年短大を卒業したばかりの20歳の女性がツイッターで活躍している。

土曜は雨だったがパーソナリティと技術担当と東京から遊びに来ていた視聴者K氏と。番組のゲストとも顔合わせ。今回行った農家民宿はJ社時代の同僚で昨年一緒に田植えをしたK嬢の親戚。徳島にいるとこんなのばかり。6月6日の番組は美郷から出張配信。準備は整ったはずだが。

徳島新聞の読み方と県議会 (5月30日・月)


徳島県との対立について共同取材を受けてから数日経った頃に朝日新聞全国面に「一太郎が家出する?」というタイトルの大きな特集記事が掲載された。取材のときに徳島でオフィスを拡張できないなら当時既に研究所があった岡山で拡充する可能性に言及していたからだ。

すると徳島新聞社会部のM記者がやってきて社員の引っ越しや子供の転校について取材をしたいと言ってきた。誰が本社を移転して引っ越すといいましたか?とお引き取りいただいた。当時は経済部にもMという記者がいたが別人。社会部はたいてい暴走する。

一方で徳島新聞政治欄は別の読み方がある。徳島新聞社は日本の地方紙の中で唯一の社団法人。設立を許可したのは徳島県。だから自らを監督する徳島県政の記事にはメディアとして以外の意図があるらしい。そう日経新聞の当時の支局長から教わった。

徳島新聞の読者には特にメディアリテラシーが求められるということか。でもより大きな問題は県議会で質問した議員たちが新聞報道に依存して一度もJ社に実情を聞きに来なかったこと。役割を演じて仕事ごっこをした議員たち。今は知らないが徳島県政の田舎ぶりを知った一連の出来事だ。

徳島県との対立とマスコミ (5月29日・日)


私が広報担当としてマスコミの本質を垣間見た最初の経験は1993年頃だと思う。三木申三氏が徳島県知事だったとき私が広報を担当していたJ社の記事が徳島新聞で1週間に渡って1面に掲載され続けた。今の本社がある川内町ブレインズパークへの移転を巡り徳島県と対立したからだ。

当時のJ社は急成長中で沖浜に自社ビルを3つ建てても足りず川内に県が造成する土地を購入する契約を結んでいた。ところが埋め立て現場で社長が見たのは産業廃棄物の処理場になっていたことだった。J社は県に土壌調査を求めた。しかし県はそれを認めず対立することになった。

このことを察知したメディアが何社かあった。繰り返し取材を依頼されたが県と交渉中だからとして応じていなかった。が交渉は埒があかずついに取材を受けることにした。取材は同時に受けた。日経と徳島新聞と読売に朝日がいた。共同通信と時事通信は忘れたが毎日と産経はいなかった。

翌日掲載された記事によって徳島県政は大混乱に陥ったはずだ。なぜなら県議会がこの日から始まったから。もちろんその日を狙って取材を受けた。特オチとなった毎日の記者が翌日悲壮な電話を掛けてきた。気の毒だが仕事をしないメディアにニュースを提供する気は私たちにはなかった。

『上勝町部落小史』 (5月27日・金)


先週のことだが上勝町誌を買った。1,300ページに及ぶ分厚い冊子と続編も合わせて合計10,500円。本編は2005年の復刻版だが元は1979年発行。上勝町は1955年に旧高鉾村と旧福原村が合併して誕生したらしく町制20年を記念して1975年に発刊する予定だったのが4年遅れたらしい。

1975年には先行して『上勝町部落小史』が発行されている。非売品で手に入らない。地元のN氏が存在を教えてくれて彼から借りている。町誌が20周年に間に合わなかったため集めた資料の中から部落単位にまとめ先行して発行したものらしい。先日来読んでいるのだがこれが面白い。

現在の上勝町には大字単位で5つの地区がある。その中に字単位の集落があるが部落小史は大字と字の中間に当たる部落単位の伝承や史実がまとめられている。部落単位だから小さな伝承が拾われている。最初に住み着いたのは誰かとか庄屋の系譜や口伝による物語などなど。

私が今住んでいるあたりは江戸時代は庄屋の屋敷があったとか明治期にお向かいは鍛冶屋だったとか。最初にバイクや車やラジオを買ったのが誰かといった話まである。大正時代に最後までチョンマゲ姿だった人がマゲを切られたエピソードなど。こうした話が残っていて今読めて楽しい。

川内のマンション (5月26日・木)


古い友人は知っていると思うが私は徳島市川内町にマンションの部屋を持っている。J社が川内に本社を移転する前の1997年1月に住み始め福岡に行く1999年2月まで住んでいた。35年ローンで返済を始め何度か繰り上げ返済をしたが私にとっては負債でしかない。

この12年間は賃貸していた。最初はJ社内で聞いてもらい新婚のW君が借りてくれ次にHさん夫妻。3組目は徳島では名の知れた企業の創業者夫妻だった。8年半も借りてくれたが先月退出されて部屋が空くことになった。5月はクロスの張り替えや美装工事などをやっていた。

と言っても不動産会社を経営している中学の同級生T氏任せ。私が動いたのは退出時の確認で約10年ぶりに部屋に行った5月初旬と手続きにT氏の会社に行った先週。そして今日。美装工事が終わったので入居者募集用の写真を撮ると言うT氏とマンションに行ってきた。

部屋は専有面積94.9平米の3LDK。バルコニー19.1平米。全部屋が南東向きか南向きの角部屋。築14年。13階建ての5階。エレベータ脇。駐車場2台(1台は屋根付)。ロッカールームと宅配ボックスあり。月8.5万円(礼金1敷金2)でどなたか借りていただけないでしょうか。

仁木博文議員のWebサイト (5月25日・水)


前回選挙で徳島3区から衆議院選挙に立候補して比例区で復活当選した民主党の仁木博文氏はプロフィールを見ると中学と高校で私の3つ後輩に当たる。面識はないが我が男声合唱団「響」指揮者の弟君とは中学の同級生であり彼らの父上の葬儀に列席していたのを昨年見かけた。

ときどきWebサイトはチェックしていた。ブログには地元の野球大会に行っただの陳情を受けただの記念撮影ばかりで1年生議員とはこの程度のことが仕事なのかとは思っていた。しかし今回の震災を受ければ書くべきことも変わるだろう。何せ医師免許を持った珍しい議員でもあるのだから。

ところがこのWebサイトである。突っ込みどころが満載だ。よく恥ずかしくないものだと呆れる。と同時に我が国会議員がこの程度かと情けない。まず終わったテレビ出演の告知を掲載し続けている古さ。Webサイトを重視していない表れなのだろうが更新しないならWebサイトは止めるべきだ。

ブログには事実だけを記述して主張がない。当たり障りのない書き方はまるで国会議員に“就職”したサラリーマン。代議士としての主張が読みたいのに。「政策」のページには6項目があるがきれい事のスローガンだけ。議員の未熟さは選んだ有権者が笑われるのだ。どうにかして欲しい。

政府の嘘と我が議員のWebサイト (5月23日・月)


3月11日の地震と津波の影響で福島にある東京電力の原子力発電所から放射能が漏れ出している。状況は落ち着きつつあると報道されているが今になって震災翌日にメルトダウンが起こっていたと発表された。意図的かどうかはともかく東京電力も政府もこの問題については嘘が多い。

年間被爆量の上限を1mSvから福島県内の小中学校では20mSvに引き上げる通達が出されたそうだ。しかし20mが妥当なのか不安視されている。今日は福島県の親たちが文部科学省で担当者を問い詰めていた。夜になってニュースで見たが日中ツイッターで誰かが中継していて知った。

20mの妥当性について私は分からないが親は不安だろう。子どもたちをモルモットにするのかという主張はよく分かる。基準数値を下げれば大規模な学童疎開が必要になる。子どもの安全よりそんな面倒なことはしたくないと政府は考えているのではないか。私も疑念を持っている。

それでふと思い立って我が選挙区選出の国会議員2人が何と言っているかWebサイトを見に行ってみた。自民党の後藤田正純氏はまだしも民主党の仁木博文氏は何なんだ。ブログは淡々と事実だけを書いて肉声がない。「いのちと生活を守る」と言いながら。こんなWebに意味があるのか?

パンチパーマ (5月22日・日)


高校2年は私が最も荒れていた1年だったと思う。学校の成績は悪くはなかったが一種の反抗期だったのかとにかくイライラしていた。吉野川大橋の上でヤクザを気取った男と言い争ったのもその頃だと思う。合唱部の練習が終わって教室の扉を蹴飛ばしてガラスを割ったこともある。

学校に行きたくなくて家で寝ていたことがある。そのときは心配した母に徳島大学医学部付属病院に連れて行かれた。精神科でうまく行けば堂々と学校を休めると考えて付いて行った。医者は薬を出しておくけど飲まなくてもいいからと言った。仮病であることは見抜かれていたと思う。

我が母校のラグビー部には一見ワルが多かった。1年のとき私がいた7組に隣の8組から休み時間よくラグビー部の連中が遊びに来ていたから彼らとは顔なじみだった。さほど親しくなかったが高校2年で不良化してパンチパーマを当てたときは彼らから握手を求められた。

授業をサボって別のクラスの音楽の授業に潜り込んだのもその頃だ。教室のガラスを割ったとき合唱部のK木嬢とF村嬢が驚いて振り返り瞬間やっちゃったとビックリしたがその後に呼び出された職員室では「強く閉めたら割れた」と言い逃れた。あの時代は一種の通過儀礼だったのか。

高校2年の下宿 (5月21日・土)


この日記で想定している一番の読者は将来の私である。何度も書くがWebに公表している以上気は遣うが私の備忘録すなわち文字通り日記として書いている。妻は私のことを過去を振り返ってばかりだと批判するが構わない。何せここは私の外部脳としての記録媒体なのだ。

ということで高校2年のときの続き。1学期に私は徳島市常三島にある母の実家に下宿していた。そこは徳島大学が近くだから学生向けの離れがあり住まわせてもらっていた。6畳一間に流しと汲み取り式トイレ。帰宅するとトイレにハエが何十匹も死んでいて毎日げんなりしていた。

母の実家と言っても食事は外食。徳大工学部北にある「a来」に通った。住吉の中華屋で天津飯もよく食べた。エアコンはなく扇風機だけ。汗を流しながら苦手の古文の勉強をしていて「帰る」という意味の「いぬる」という単語に驚いた記憶が残っている。徳島では今も「いぬ」と使っていると。

数年前にこの家の叔母と話をしていたら祖母が当時私の部屋を覗いていたらしい。母屋の風呂を使わせてもらっていたような気もするし週末は洗濯物を持って自転車で鳴門に帰っていたはずだがよく覚えてない。誰か友だちが来たことがあっただろうか。もう記憶が曖昧になっている31年前。

淡路合宿 (5月20日・金)


高校2年の夏休みは我が高校の合唱部が淡路島にある青少年自然の家で合宿をした。この施設には1年のときに宿泊訓練とかで2泊ぐらいしていた。1年のときは軍隊かと思うほどルールが厳しく規律を求められたが合唱の合宿ではさほど厳しくはなかったかも知れない。

合唱の合宿と言っても1日中歌ってばかりでもなかったと思う。腹筋や背筋を鍛える運動もやった。私は背筋が強かったのかOBの森さんに驚かれた記憶がある。OBで防衛大学を中退する先輩がいかに学校の訓練が厳しいか繰り返し語っていた。現役20人とOB5人ぐらいだったか。

男子と女子は階が分かれていたと思うが1つ先輩の女性Yさんが深夜に私たちの部屋に来て同級のSとタバコを吸っていた。私が初めてタバコを吸ったのはそのときだ。最終日のバスを待っているとき座ったYさんの下着が正面から丸見えだったことを強烈に覚えているが当時は言えなかった。

あのときは鳴門の岡崎から船で淡路に渡った。港近くに自転車を停めて行ったがその自転車の件で警察が私の名前を照会していたらしい。アマチュア無線仲間のM氏が警察無線を傍受し録音していた。そのテープを聞いたのは千葉にあったM氏の自宅で大学4回生の終わりだったはず。

「冬・風蓮湖」 (5月19日・木)


定期演奏会後初めて「響」の練習に行ってきた。次の出演は6月26日(日)の徳島県合唱祭。通常2曲を歌う。それに向けて今日練習したのは今年の全日本合唱コンクールの課題曲。コンクールで歌う課題曲は1曲だけだが4曲あるうちの2曲の音取りをやった。

2曲目は難しかったが1曲目は曲名に記憶があった。「冬・風蓮湖」。北海道の根釧平野を歌ったこの曲は団長と指揮者によると私たちが高校2年のときのNHK全国音楽コンクールの課題曲だったらしい。当時は混声合唱で歌った。今回はもちろん男声合唱だ。

高校2年。当時6月の合唱祭に出ていたかどうか記憶は曖昧だが少なくとも8月末まで2ヶ月間を毎日練習したはず。曲の雰囲気は今も覚えている。でも音は別。ほとんどゼロから音取りした感覚。「ヒュウーヒョオー」という出だしの歌詞と音は覚えていた。

この年は確か8月に淡路島の青少年自然の家で合宿をした。部長は今は東京の出版社にいるK元で副部長はK木嬢。彼女の息子とは今や「響」の仲間。私は青春のイライラ野郎で体制批判派。部内で孤立していたと思うがあの合宿の記憶は濃い。思い出して記録しておこう。

「響」定期演奏会の総括 (5月16日・月)


5月4日の徳島男声合唱団「響」定期演奏会について総括をしておく。まず私個人について言えば「ありがとう」の歌詞は覚えられず「暑中お見舞い申し上げます」で歌詞忘れはあったが他は大丈夫だった。4ステ「あの日たち」組曲でハミングか「ウ」なのか迷ったところもあったが影響は少ない。

全体では演奏を聴いていた妻らの話を勘案すると4ステは悪かったらしい。おそらく歌詞や音を覚えきれなかった団員がいたのだと思う。前日練習でも楽譜を持っていた人もいたし。無伴奏だから音程のずれもあったようだ。2ステは歌より楽しさだから何とかサマにはなった様子。

いずれにしても時間が足りなかった。今回の定期演奏会は昨年11月のコンクール全国大会の打ち上げで指揮者が言い出したもの。団員の練習への出席率は前回の定演のときより悪かったと思うが団員が意見を出して決めた日程でなかったことで個々に責任感が薄かったのも遠因だと思う。

それでも練習をしないと歌えるはずがないという当たり前のことを改めて認識した。結局のところ自分が納得できる演奏をするためには練習するしかないのである。正直に言えば特に1ステはもっと歌い込みたかった。定演が終わったのにまだ口ずさんでいる。正しく演奏はしたが達成感がない。

香川まんのう公園 (5月15日・日)


ふと思い立って香川まで行った。私がよく行く小松島のカフェ「こはくの天使」が徳島バーガーをB級グルメフェスのような場で販売するというので。まんのう公園というところ。弘法大師が作り香川で一番大きなため池として知られる満濃池の周りに整備された公園らしい。

とりあえず上勝でカーナビをセットしたら徳島道を行くルートが提示されたからその通りに。川内で少し回り道をして徳島ラーメン「西食」で昼食。最近F氏が家を建てた近所。前から行ってみたかったお店。美味しかった。さて再び取って返して高速に乗り西へ。

まんのう公園は入場ゲートで渋滞。この時点で初めて駐車料金が有料だと知った。さらに入場料も必要で大人2人で800円。駐車代金300円。引き返そうという妻をなだめて入場したが駐車場は満杯で遠くに駐めたら目的地まで徒歩10分。ともかくグルメ会場には着いた。

でもこれが巨大な芝生広場。徳島で言えば神山森林公園のようだが規模は数倍は異なる。「こはくの天使」のテントに行ったら既に完売していた。帰りは駐車場まで巡回バスで。徳島へは高松道経由。徳島で夕食を取り上勝に戻ったら20時過ぎ。

テニスと温泉 (5月14日・土)


土曜は15時からテニスをやった。月ヶ谷温泉の送迎バスに乗って温泉が管理しているテニスコートへ。ひび割れていたり草が生えていたり酷いコートだが意外に遊べる。メンバーは上勝の友人たちで大人8人。子ども3人が走り回る中でゲーム形式ではなく2対2や3で楽しんだ。

8人のうちテニス経験者は妻とF氏S氏の3人。私を含め4人は過去にやったことはあるという程度。全く初めてラケットを持ったのが1人。私は昨秋やって以来だがラケットは買っていた。8ヶ月ぶりのテニスは我ながらサマになってきたと錯覚するほど打ち返せた。なかなかに面白い。

3時間もやって初心者M嬢だけが帰ってみんなで月ヶ谷温泉に入ってから食事。車で来ていたF氏夫妻も飲み始め私は生ビール4杯か5杯飲んだ気がする。帰りも温泉の送迎バスで。瀬津を経由して峠越え。F氏家族の自宅方面に回りMちゃんは自宅前で下り。

戻ったら公民館の会議に呼び出されて行ってきた。この時点で十分飲んでいたのにまた缶ビール。結局350mL2本。終わってT氏を誘って事務所に戻ってまたビール。500mL缶1本。これだけ飲んだのに翌日曜は7時に目覚めた。運動のせいか日に当たったせいか。

美郷に忘れ物とカップホルダー (5月13日・金)


次回の上勝TVは美郷から配信する。美郷とは合併で今は吉野川市の一部になった旧・美郷村である。徳島から吉野川沿いに西に1時間弱。そこから南の山に入ったところにある。2月頃から何度か打ち合わせに行っていて木曜にも訪問した。

ところが配信テストで使ったドコモのモバイルWi-Fiルーターを忘れてきてしまった。気づいたのは鴨島の喫茶店。次の用があり戻る時間がなく電話して保管を依頼して今日改めて取りに行った。昨日は眉山の南西を回り込むルートを使ったが今日は徳島駅前の銀行経由。

忘れ物を回収しふと思い立って通った道は美郷から山川に下りずに東に折れて川島に抜けるコース。昔シルビアに乗っていた頃によくドライブした道だ。途中「恵美子」バス停から南に山中を走り回った。が今日は恵美子を忘れて気づいたら通り過ぎていた。残念。

帰りに鴨島のホームセンター・ダイキに寄り車載カップホルダーを買った。エアコン吹き出し口に付けるヤツ。これにiPhoneを置いてツイキャスで動画配信しようというわけだ。最近ツイッター仲間でこの配信をよく見かけていてやってみようと思っていて。ドライブを動画配信。凄い時代だ。

痔 (5月12日・木)


痔になった。ある日トイレで大便をしたら尻を拭いた紙が真っ赤だった。便器の水はピンク。ギョッとした。妻に話すと「それは痔だね」と。4月30日の夜だったと思う。1日に上勝でイベントがあり夜は「響」の練習。その後の状況を見ていたのだが今は落ち着いている。

あれは体調が最悪だったときだ。5月2日は練習はなかったが朝やはり血が出た。夜には収まった。痛みもないし何の感覚もないけど気持ち悪い。その後は大丈夫。既に10日。今は体の疲れが反映していたのだろうと勝手に判断している。

実は前にも一度同じことがあった。既に東京に住んでいて福岡のD社本社に出張したとき。過去の日記を調べてみたら2001年7月。福岡のホテルに泊まり朝トイレで鮮血を見てびっくり。本社に行って皆に言ったら口々に「それは痔ですね」と言われた。経験者が多いことに驚いた。

ある人は薬を塗っていると言っていた。どうやって塗るんですかと聞いたら奥さんにしてもらっていると。ウヒョー。ともかくあれから10年。当時の日記によると土曜と月曜だった様子。10年経って何故に今なのか。やっぱり4月末から定期演奏会までは疲れていたということかな。

モバイルWi-Fiルーター (5月9日・月)


4月末からNTTドコモのモバイルWi-Fiルーターを使っている。電源投入後の起動が遅かったりときどきWi-Fiが死んだり使い勝手は今ひとつ。ただしソフトバンクの電波が入感しない上勝では重宝するし有線ネットワークがダメなときは活躍している。その設定には多少戸惑ったが。

事務所のネット回線は有線ルーターをゲートウェイにしてLAN内の機器にIPアドレスを与えている。プリンタは固定IPだがPCなど他の機器はDHCPで自動割り振りだ。当初失敗したのはモバイルWi-FiルーターのDHCPが割り振る範囲と元のIPアドレスが重複していたのが原因だと思う。

そこで4月末にネット回線が不通になった際デフォルトのまま設定してみたらあっさりルーターとして機能し始めた。ちなみに回線速度を調べてみるとサイトによって違いがあり下り825Kbpsだったり670Kpbsで上り364Kbpsや250Kbps。光回線に比べて1/30ぐらいか。遅いことは遅い。

一方でWi-Fi機能は設定当初iPhoneからうまく接続できず理由を探したら暗号機能を強くしすぎていたらしい。暗号化レベルを下げて設定したら難なく接続。ただしGHz帯の電波が体にいいとは思えない。事務所では電源を切ってiPhoneは光回線に繋いだWi-Fiで使っている。

宍喰〜室戸〜南国ドライブ (5月8日・日)


夕方になり食事をするつもりで1人で外に出たところ天気が良かったもので宍喰まで行ってしまった。徳島の最南端の町である。上勝から2時間弱で着いた。これまでもふらりとドライブに行ったことはあるが日暮れ前。サーフィンから上がった人たちが何人か。意外に人がいる。

2時間かけて行った宍喰だが帰りをどうしようかと考えた。来た道を帰るのが最も早いが面白くない。少し戻って海部川沿いを遡り峠を越えたこともある。ただ峠道は本格的な山道で結構疲れる。峠を越えてさらにもう一つ峠を越えないと上勝には帰れず少なくとも4時間近くかかる。

もう少し戻って日和佐から相生に峠を越えると少し楽だ。峠越えだが2車線道路。相生から美杉峠を越えて上勝に帰る方法もあるし国道195号を鷲敷まで下りて那賀川沿いを阿南に抜ける方法もある。別の道を帰るには最も楽で時間も早い。3時間弱か。

でも選択したのは室戸岬経由。たまには長距離ドライブもいいだろう。6時間と見積もった。信号がない海岸沿い100km以上を60km/hで走り南国市から高速に乗り南東四国を一周。宍喰から室戸経由南国まで2時間半。高速で休憩込み1時間半。意外に4時間半強で帰った。

GWと伊邪那美神社 (5月7日・土)


「響」の定期演奏会が4日に終わって少しずつ体調が戻ってきている。黄砂も今日はなかった。4日の打ち上げは1次会で十分飲んだので代行で早いうちに帰って5日(木)は小松島の「こはくの天使」にコーヒーを飲みに行った。マスターと久々に雑談。帰りは勝浦の道の駅でのイベントを覗いて。

6日(金)は夕方になって阿南へ。近所のS氏が働いている「カメラのキタムラ」で時間を潰しつつ諸々相談。帰りにS氏から教えられていた羽ノ浦にある中華料理店に行った。担々麺が美味しかった。でも麻婆豆腐は四川風で私には辛すぎた。お腹が痛くて寝られず。

今日7日になって落ち着いて午後から美馬市に行った。上勝からは一旦徳島市に出てから高速道路に乗って西に向かう。最初に行ったのは伊射奈美神社。平安時代に編纂された延喜式神名帳で伊邪那美尊を唯一祀った神社が徳島のここだけで一度行きたかったのだ。

ただし今日行った神社は吉野川中洲にあって流された社殿を江戸期に移転したというもの。北岸にある。そこで伊邪那美神社だと比定されているらしい高越神社に。高越山山頂付近にあり車で山道を延々数十分。駐車場から徒歩で20分。うーん。やはり黄泉の国は見向きされなかったのか。

「響」定期演奏会の来場者 (5月5日・木・祝)


5月4日の徳島男声合唱団「響」の定期演奏会には会場の阿波銀ホールの定員いっぱい800人もの観客が聴きに来てくれた。会場前から並ぶと聞いていたが開場25分前に12人が並んでいた。開演直前は長蛇の列だったらしい。会場では補助椅子を出すほど盛況だった。

私の関係では母と叔母が来た。母の「鳴門第九を歌う会」時代の仲間も来てくれたらしい。上勝ジョシコーラスからは徳島市のHちゃんと阿波市のMちゃんも。ロビーコールが終わって声を掛けられ驚いたのが私の中学の同級生で今はWeb制作会社の社長T嬢。

最近Facebookで話をしているし我が指揮者の父上の葬儀でも会ったが何でT嬢がここにいるのかと理解できずあまり話をしなかった。残念。それよりも今回会った中で私が最も感動したのは若槻君だ。今は徳島市三宅で父上を継いで内科医院の院長を務めている。

彼は私の1歳下だが中学時代のバスケットボール部と合唱部で一緒だった。高校時代も合唱部で2年間一緒にいた。私の代の次の部長だった。25年は会っていなかっただろう。末広あたりを車で走る度に医院の看板を見て彼のことを想っていたのだ。その彼が来てくれたのだ。人生は楽しい。

「響」第5回定期演奏会 (5月4日・水)


前日練習で疲れて夜うたた寝したからか寝られなくなり3時半頃就寝。7時起き。9時に阿波銀ホール(徳島県郷土文化会館)に行き諸々の準備と午前中はリハーサル。声の出は悪くないがステージならではの響きがあって戸惑いながら。お昼を食べ楽屋で横になって仮眠を少し。

オープニングの「お茶の木」は無難に演奏し1ステの組曲「くちびるに歌を」も私は98点の出来。ダイナミックレンジの広い演奏ができたと思う。2ステは「ゆけゆけ飛雄馬」メドレーから全6曲。うさぎ跳びをするバリトンK君と団長の三つ編みで笑ってもらった。これぞ「響」。

「暑中お見舞い申し上げます」は団長と指揮者と徳島県合唱連盟事務局長の3人がキャンディースではなく森三中に扮して踊る。私はリードボーカルを担当したが踊りに気を取られ歌詞忘れが一カ所。「Longest Time」は歌詞は大丈夫だったが「ありがとう」は苦戦した。

4ステの組曲「あの日たち」は作曲者の北川昇氏も来場していた。私は正しく演奏はしたが今いち。ただ800人の会場は満席だった。前の方に注意してみると空席はあったが補助椅子も出ていた。1ステ中2F席入口に何十人もが滞留していて驚いた。いや凄い。ありがとうございました。

上勝TV第6回配信と疲労感 (5月3日・火)


月曜は上勝TVの第6回配信を行った。今回の配信マシンはMacBook Pro。3月に徳島から配信した東京のUstream番組「UST Today」が使っていて技術統括M君が影響を受けたらしい。17インチディスプレイ。CPUはインテルCore i7(2.3MHz)。メモリ8GB。

M君が事前に設定してくれていたので準備は楽々。ところが20時頃から回線が不調。ときどき切れる。M君によるとUstreamサーバーもときどき止まっていたらしい。今回は早めに見切りをつけて回線はドコモのモバイルWi-Fiルーターにスイッチ。M君の回線で配信し私の回線がモニター用。

ドコモ回線の速度は心許なく最低画質に設定。途中何度か遅延し1度は切断したが無難に終わった。ピーク60人。ようやく落ち着いてタイムラインとの掛け合いもできるようになってきた。プレゼントは27名が応募してくれ当選者5名のうち4名が徳島県外。ありがたい。

多少は慣れてきたが終わってみれば集中しすぎてぐったり。1日の上勝イベントの音響も担当したM君も疲れが出たか泊まって行き私はあまりの疲労感にビールを飲んだ。今日はさらに疲れが酷くそれでも午後から「響」の練習に行ってまたぐったり。本番の明日が終わればゆっくりできる。

ジョシコーラスの本番と「響」の練習 (5月1日・日)


体調は悪く起きたのはお昼。今日は地元で5kmを歩くイベントがあって上勝TVスタッフやツイッター仲間らが上勝にやってきた。それよりジョシコーラスの指揮をしないといけない。13時半頃に集まり始め14時に一旦会場に行ったが事務所に戻って練習。昨夜の復習を繰り返し。

15時に再び会場でリハーサル。リハーサルでは各曲の一部だけ。上勝TV技術統括M君が音響を担当していてマイクもセッティング済み。無理をしなくても声は通る。本番まではゆっくり過ごしライブが始まる16時に行ったがゲストの日比野克彦氏らのトークが長引き結局始まったのは16:45頃か。

ゆっくり丁寧に歌うことはできた。「手紙」は少し危なかったが持ちこたえた感。昨日も書いたが格段に上手くなっていてこれなら徳島県合唱祭に出ても通用するかも知れない。さてジョシコーラスが終わって私はすぐ戻り車に乗って徳島へ。「響」の練習。今日を入れて練習日は2日だけ。

2時間半みっちり歌って風邪気味の私は頭痛が少し。疲労感が強く目が痛い。2つの組曲は頑張ったら歌える。でも「ありがとう」と「落葉松」は絶望的な状況。明日覚え込むしかない。練習を終えて鳴門の実家にチケットを届け23:30頃上勝に帰った。鳴門から59分。

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© 2011 Takashi INAGAKI