2010年12月

実家で大晦日 (12月31日・金)


寝慣れない実家のベッドで浅い睡眠。朝7時半過ぎに起きて車のエンジンをかけて。今日は暴風雪の予報で上勝や徳島でも雪が積もっていたようだが鳴門は何ともなかった。車で妻だけが出発。香川県の引田におせち料理を作りに。J社時代に私の後輩だったM嬢の実家。Z嬢も一緒。

私は実家にいたところで特にやることはない。午前は浅い眠りを取り返すべくうたた寝して午後はもっぱら読書。読み掛けだった2冊を読み終えた。今年はあまり本を読まなかった。アマゾンで買ったものの積ん読なのが多分20冊近く。来年は時間を作って本を読もうと思う。

妻はおせち料理とともに18時頃帰ってきた。夕食は母と3人ですき焼き。夜はこたつに入って紅白歌合戦を3人で見ながら私は再び読書。これまた読みかけだった3冊目を読み終えた。築50年の古い家では寒いからこたつに入って狭い部屋にいるのがいい。

さて大晦日である。上勝での生活も3年目に入った12月だが今年は徳島で多くの旧友たちと再び付き合いが始まった一年だった。ツイッターを通じて新しい仲間もできた。多くの人に助けられた一年でもあった。ありがとうございました。来年は卯年。私は年男。来年もよろしくお願いします。

小松島から鳴門の実家 (12月30日・木)


2泊3日の準備をして午後出発。まずは小松島の「こはくの天使」で昼食。1月9日まで年末年始は無休で営業するらしい。ツイッターを始めてここのマスターと知り合えたのは今年の収穫の一つで昼食や夕食で何度も通った。店を出て国道に出る前に産直市に寄った。結構売れているらしい。

鳴門ではマイケルで買い物をして実家へ。すぐ近所の農家Iさん宅に車を停めさせてもらい母に頼まれしめ縄を飾り仏壇に線香をあげ私の部屋に寝床を作り。妻と母は何だかんだとおしゃべりを始め私はパソコンの設定をやったり新聞を読んだり。

夜は予約しておいた旧撫養街道にある「半ら」に母と妻と歩いて行った。前にY氏/M嬢夫妻に連れていってもらった店。私が幼稚園や小学校時代に通った道を通って。上勝のS氏の大叔母がやっていて小学校時代によく行った小橋文具店の前も通った。古い民家を生かした座敷でビール。

行きの通学路は暗かったから帰りは別の道。鳴門一中すぐ西の新しい住宅地の中を通った。明日は暴風雪との予報の中で確かに寒いがあまり寒さを感じない。上勝で3冬目で寒さに慣れたのかも知れない。実家に戻ったら母と妻は料理をしながらまたおしゃべり。

消防団の年末警戒 (12月29日・水)


消防団の年末警戒に参加してきた。消防団の通常の点検は冬は18時集合なのだが年末警戒は20時から24時。12月26日から始まり30日まで行う。この間は消防団の赤い消防車(ポンプ積載車)で分団管掌の地区を「火の用心」と訴えながらくまなく回る。

私が参加したのは昨年に続いて2度目。昨年は確か機械部長K氏の運転で同級生F氏と3人で回ったような記憶があるのだが今年は6人。ポンプ積載車の前席3人と後席3人。ところがこの車の暖房は前席しか効かず後ろは寒い。それで暖房を強にするのだが今度は前席が暑い。

緊急車両なので構わないのだが今日はマイクをH氏と交代で握るため前席に座り暑かった。運転してくれたのはY分団長。後席にS氏とI氏と本団のN氏。詰め所にO氏とY部長と遅れてきたT氏。明日まで警戒は続く。少しでも火の元に注意を向けてくれればありがたい。

私は消防団に入団して2年目でしかないがそれでも乾燥注意報が続くと少し気持ちが身構える。今日は雨が降ったから少し安心。何度か訓練に参加して有事の際に私に何ができるのだろうと考える。詰所に近いので初動は私が担うべきだろうとか。冬は特に火への意識を持って欲しいと思う。

とくしまマルシェのメディア (12月28日・火)


とくしまマルシェではメディアの人とも話をした。まずは関西テレビ。K支局長とは15年来の友人である。日経の徳島支局長だったK氏を中心に集まった飲み会で知り合って以来。私の東京時代でも2年に1回は飲んでいたし年に数回は長電話で情報交換をしてきた。今回もニュースにしてくれた。

そのK氏の奥様は徳島では実は有名人。奥様の兄上は徳島経済界で知らない人はいないし亡くなった父上は40歳以上の徳島市民なら全員が名前を知っている。奥様の兄上と話をしたのは15年前の多分1〜2度だけだが奥様とは何度か。午後に来られたのでご挨拶。2年ぶりぐらい。

一方で徳島新聞の記者と話をしていたら上勝TVの記事を読んだ彼の先輩が私のことを「元J社のIさんじゃないか」と言っていたと聞いた。90年代によく取材に来たM氏は私のことを覚えているらしい。ちなみにM姓は徳島新聞に2人いるが四国放送の元社長の息子ではない方のM氏である。

90年代にM氏は経済部だったが2人目のM氏は社会部だったような記憶がある。徳島にいればそのうち会うだろう。会場では「響」の取材に来たことがある朝日新聞の記者やテレビトクシマのレポーターとも話をした。全メディアが来たイベントに主催者に近い側で関わったことは面白かった。

とくしまマルシェで会った友人知人 (12月27日・月)


日曜にあったとくしまマルシェ。まずは大成功だった。レンコン農家さんの店やツイッター仲間の徳島バーガーは早々に売り切れ。売れなかった店は何が悪かったのか考える必要があるが続けることが大切だ。出店者向け売り方セミナーをやろうと主催者のトップらと打ち上げの席で話し合った。

さて会場には知人が大勢。元同僚10人ぐらいと会った。知事に声を掛けて挨拶した同期のM嬢。同期のもう1人のM嬢とは12年ぶり。とくしまマルシェのコピーライターN氏には急遽USTに出てもらった。社内結婚したN嬢とは15年ぶりぐらい。同期I夫妻と後輩A夫妻に新婚K君と奥様とか。

打ち上げにはコピーライターN氏とデザイナーF氏もいた。主催のK氏が私とN氏の関係を知って驚いているが徳島経済研究所には友人がいて会場で何度も話をしたし阿波銀行のA氏夫妻とも話した。ツイッターで知っていたH嬢とは初対面だったが「響」団長が高校の担任教師だと分かったり。

上勝からは有機農業研究会の面々にU氏とHちゃん。ツイッター仲間も10人を超えて会った。鳴門のS君は彼女を連れて。2度目に会った板野のO君やMぽんやRさん。徳島市議村上氏。徳島バーガー販売チームもそう。新たに知り合った農家さん複数。私にとっては巨大なパーティだったかも。

とくしまマルシェ (12月26日・日)


6時半過ぎに出発。徳島市の阿波銀行本店駐車場に7時半集合。10分ほど前に着き仲間と荷物を持って新町川ボードウォークへ。徳島市中心を流れる川沿いに整備された遊歩道で今日は「とくしまマルシェ」が初めて開催される。その模様をUstream配信するスタッフの私はお手伝いのような。

マルシェはフランス語で市場を指し東京はじめ都会では農家さんが直に出店して賑わっている。これを徳島でやろうと阿波銀行のシンクタンク徳島経済研究所が構想を公表したのが6月。縁あって妻が検討委員になり11月からは実行支援委員になってツイッターとUSTをやろうと提案したらしい。

そして阿波踊りUSTチームに協力を仰ぎ実現したのが今日。来賓として来る徳島県知事に店舗を見て回るように徳島経済研究所経由で先週要請して今日はUSTチームがそれを配信。知事は予定時間を過ぎても丁寧に話をして食べて回ってくれた。私は知事を撮すUSTチームを撮影。

知事UST以降は100円バスに乗った2号と出店者突撃の3号と基地局と主催本部の合計4台。徳島市長がゲストのときは5台。来場者は1.2万人。ステージでの演奏も素晴らしかったしUstreamで聞いたゲストの話も面白かった。撤収後一旦上勝に戻り夜の主催者打ち上げに出て22時帰宅。

帰ってきた109U (12月25日・土)


定期配信していた番組としては日本で初めてだったはずのUstream番組「109U」(4月から7月まで)が特別番組として配信された。パーソナリティは上勝TVに出てもらっているイマジンとルパン。それに上勝TVの企画にも深く関わってきたゆかりん。109Uの1部と2部のパーソナリティ3人だ。

2部出演者のリリーがいなかったのは残念。1部の桐箱ちゃんは身重。2部のまーくんは上勝TVと同じく今回は技術担当。先日の阿ツイ会議で会った兄上もいた。大阪のツバサちゃんはじめ全国の見知ったアカウントがタイムラインに並んだ。始まりは30人弱で最後は43人ぐらい。

この人数とそれに対する盛り上がり度合いを鑑みるに身内の楽しさが大いにあると思う。常連達の楽しさのような。TL上の人たちの半分は知らないが出演者はリアルに会ったことのある人ばかりで面白い。前説が20:45頃から始まって23:15頃までTLに参加して楽しんだ。

明日徳島市のボードウォークで開催される「徳島マルシェ」の告知と「上勝TV」のことも。ともに私たちが深く関わっているのだが今日ここまで話すとは知らずPCの前で驚いていた次第。この仲間たちのライブ感が良い。このいい加減かつ臨機応変なのがUSTの面白さだと再認識した次第。

AERAとニュースとiPhoneアプリ (12月24日・金)


1年前に東京に行ったとき電車の乗り換えだけで頭を使っていた実感があったのに今年は全くそれがなかった。昨年の出張は緊張していたのだろうか。でも今年は深く考えず半蔵門線ホームを前の方から地下鉄に乗ったら永田町乗り換えの南北線は後ろ側で時間をロスしたり。

それより初日に買ったAERAが面白かったことは意外。かつて毎週買っていたが下らないトレンドを針小棒大に報じるようになってから読まなくなっていた。でもネットで情報を集めているつもりでいてもネットでは私の興味の範囲しか目に入らないということか。広範な記事に刺激を受けた。

さてツイッターを始めたのは典型的な文系のはずの友人ニシノがやっていて刺激を受けたから。iPhoneも彼が使っていると聞いたことで背中を押された。そのニシノとは初日の夜に会った。高校時代からあらゆる内容の話をしてきた彼とは今回も下ネタ話があったがiPhoneアプリの話題も。

そこで何本かダウンロードした。前に「響」の医学生W君から奨められていた産経新聞や雑誌の中吊り広告や。かつてAERAと週刊文春を毎号買うのが習慣だったのに上勝に住んでから文春さえ読まなくなった。中吊り広告を見て記事によっては買ってみようかなと思わせられた今回の東京。

義母のマンション (12月23日・木)


11時前にホテルモントレ半蔵門をチェックアウト。このホテルは加湿器が備わっているのが良い。ホテルを出て半蔵門から東京メトロ・半蔵門線〜東急・田園都市線・駒沢大学駅へ。いつも通っていた相互乗り入れ路線。数年ぶりに買ったアエラを読みながら。

PCや景品のワインが入ったバッグが重い。駒沢大学からは前に住んでいたマンションの前を通って近所だった朝日屋へ。美味しい蕎麦を食べようと思ったのに何とうどん屋に変わっていた。後から聞いたら車に突っ込まれたり大将が体を壊したりで転換したそうだ。それでも近所の人で満席。

世田谷通りを超えて松陰神社まで歩いてみて引き返して義母のマンションへ。新しく買ったテレビを台に固定したり分波器を繋いでBSが見えるようにしたりエコポイント用に保証書を受け取ったり。雑談いろいろで12時半から1時間いた。昨年と変わらずとても元気そう。安心した。

再び駒沢大学駅から渋谷に出た。新宿に行くのは諦めて東急プラザの紀伊国屋で本を物色。JR品川から京急で羽田。待合室で上勝町役場K参事と町長と会って雑談しばし。友人が尼僧を務める京都の寺で一泊してきた妻の迎えで徳島空港から20時頃に上勝。3日間で3万歩弱20km強。

護国寺と忘年会 (12月22日・水)


始業の9時半を回ってオフィスに着いた。地下鉄有楽町線・護国寺から徒歩5分ほど。1年ぶりのオフィスだが昨日と同様で何の感慨もない。オフィスの席は微妙に変わっていたが空いた席に座れば私は何の違和感もない。周りの人と話をして11時から会議。6Fで。これも昔のままで。

昼食はボスと。講談社の目の前の蕎麦屋。1年前にはなかったと思う。13時頃に一旦オフィスに戻って再び講談社の前へ。まずは三菱東京UFJ銀行で現金を下ろし郵便局に行って税金の支払い。とりあえず今回は消費税だけ。県税と町民税は徳島に帰ってから。

さて我が弟が目の前の講談社にいるはずで歩きながら探してみたがさすがに会わなかった。過去に三菱東京UFJのATMうどん屋で偶然会ったことがある。改めてiPhoneで地図を見たら講談社は私がいたオフィスと直線で最短50m。とは言ってもわざわざ護国寺で会うこともない。

その護国寺に初めて参拝した。毎日目の前を歩いていたのに行ったことがなかった。夜は18時頃オフィスを出て月島のスパニッシュ。忘年会の人たちで賑わっていた大きなお店。ビールとワインを飲んで仲間と話をして大いに酔っぱらい。楽しかった。23時半頃にホテル着。

東京出張 (12月21日・火)


上勝を出たのは10:34。2泊3日の東京出張。何と1年ぶり。今回はJALのマイレージで。徳島空港11:39で慌ただしく徳島ラーメンを食べて搭乗。検査場で元同僚にして20年近く前に独立したO社I社長と会った。前に会ったのは8年ほど前の赤坂見附。何と上勝に親戚がいてよく行っているとか。

飛行機に乗ったら先輩のM浦さん。目で挨拶だけ。飛行機はガラガラで羽田に着いて京急で新橋。銀座線で赤坂見附。まずは税理士さんの事務所。15時約束が早く着いて14:30。15:30に出て半蔵門のホテルにチェックイン。取って返して永田町乗り換え南北線で白金高輪。

乗り換えに失敗して5分遅刻。A社の広報担当Yさんと落ち合って日経BP社。日経パソコン編集部へ。担当のT氏とご挨拶。最後にN編集長や今年パソコン局長に昇進した鳴門出身F氏に30年の付き合いになるM氏らと挨拶。PDAの師匠M氏とも遠くで目礼。

夜は電話で呼び出した旧友ニシノと。永田町から歩いて銀座線経由末広町から秋葉原ヨドバシ。8Fのカレー屋で私はビール。喫茶店に移って情報交換。iPadやガラパゴスなどをチェックしながら解散。大手町東西線まで送ってもらった。昨年と異なり今回の東京は頭も使わずマイペースな感じ。

アメフトチームにいた友人 (12月20日・月)


アメフトチーム「徳島レッドインパルス」には同僚が2人いた。1つ後輩でニュージーランドに移住して今は徳島で翻訳家としても活躍しているK君とT脇君。大きい方の。T脇君は私たちが関わったとき骨折していて試合に出られず観客席からよく解説してくれた。

K君はNZから帰って翻訳会社に所属するのだがすぐ誘われてマイクロソフトに入った。その前後に私が一人でいたD社の東京オフィスを訪ねてきてくれたことがある。当時のマイクソフトの社長は阿多さんではなかったか。K君の大学の先輩にしてアメフト部創設者として知る人ぞ知る存在だった。

さてアメフトチームには高校時代の同級生もいた。クラスは違ったが体育が同じ授業で彼とは帰る方向が一緒だった。小柄だったがアメフトは選手の役割が厳密に決められていて体格に応じたポジションがあると聞いた。それからアメフトを見るのが面白くなった。

そうして遠征に帯同して試合を見に行くようになったのだがあるときK君がやってきて皆の感謝の気持ちだとリーグが発行した年史をもらった。チームに贈られてきたうちの1冊だと思う。先日実家の納屋で発見して持ち帰ってきた。K君に連絡したら持っておいて欲しいというので手元に置いてある。

アメフトの試合 (12月19日・日)


関西リーグに加盟したアメフトチーム我がジャストシステム徳島レッドインパルスに私は会社側として関わったことで試合には極力応援に行った。東京出張の帰り伊丹空港まで全日空で飛び大阪であった試合を見に行ったこともある。徳島からバスでチームに帯同して行ったこともある。

徳島から行ったときはバスの中で何故か本木雅弘主演の映画「シコふんじゃった」を見た記憶がある。大阪での試合に行くと相手チームの応援はめちゃくちゃ美人で格好いいお姉さんが大勢。選手の彼女たちなのだろう。我がチームの応援とは全く違うことを面白がった。

徳島では2度の試合を覚えている。1つは入田の競技場。四国放送だかNHK徳島が取材に来ていて後から会社でインタビューを受けたZ嬢が「選手たちの玉のような汗」と表現したことを私たちはからかった。あれは12月だったと思う。もう1つの試合は鳴門の陸上競技場であった。

それはチームの主催ゲームだった。主催者は事故に備えて医師を用意しないといけない。私は当時徳島大学医学部で働いていた高校のクラスメートS野に頼んで来てもらった。実際ゲーム中に事故が起こり複雑骨折した選手が救急車で鳴門病院に運ばれたんだった。

アメリカンフットボール (12月18日・土)


BSデジタル放送を見ているとNHKでアメリカンフットボールの試合をやっているときがある。米国のNFLだ。ルールは細かなことは分からないが基本的なことは知っている。1994年に同僚でアメフトをやっていたT脇君から教えてもらった。当時会社がアメフトチームのスポンサーになったのだ。

ジャストシステム徳島レッドインパルス。元々チームがあってスポンサーになり1994年に関西社会人リーグに加盟するため私は会社を代表してリーグの面接に行った。1つ下の同僚で後にニュージーランドに移住しマイクロソフトを経て独立するK君と徳島銀行に勤めていたQBのキャプテンと。

明石海峡大橋はまだできておらず淡路北端の岩屋まで車で行きフェリーと電車を乗り継いだ。本州に渡った駅で電車を待っているときK君に私が離婚すると話したことを覚えている。面接には同じような新規加盟を求める企業とチームが5団体ぐらいいたように思う。

彼らには厳しい質問が飛んだ。連盟は企業の宣伝を嫌っていたようだった。逆に私たちには優しかった。私たちが加盟した場合に徳島で試合をすることができるだろうかという質問もあった。実際後に関西リーグの試合を徳島でやることになる。帰り道にキャプテンを川内の加賀須野に送った。

著作権表記 (12月17日・金)


今日話をした仕事関係の人から何ヶ月か前に私が伝えた件について報告を受けた。「全社の全ての表記を変えました」と。特に彼のために言ったことではないのだが私に言われて初めて知ったことらしく一斉に変えたと。何のことかと言えばWebサイトの著作権表記である。

よく「Copyright (c) 2010 TMI All rights reserved.」という表記を見る。著作権はTMIにあると言っているつもりだろうが実はこの表記には何の意味もない。日本の著作権法には何ら規定されていない。あるとすれば万国著作権条約においてだがその規定は「©」と初出年と著作権者の3つ。

だから正しい表記は「© 2010 TMI」である。「Copyright (c)」は昔パソコンで「©」と表記できなかったときの代用表記でしかなく「©」とは全く異なる。「All rights reserved.」は米国とチリだったか南米の一国との2国間貿易での防御表記の意味でしかない。しかも1970年頃までの。

そもそも著作権表記は創作した時点で著作権が発生する無方式主義の国の著作物を登録を要する方式主義の国で守るための規定である。ところが今や方式主義の国はほとんどない。著作権主張の意味は認めるがそれなら「© 2010 TMI」と書かないと意味をなさないのだ。

バスケットボールのユニフォーム (12月16日・木)


中学のバスケットボール部の話を先日書いて思い出したことがある。私の背番号7番について。多分1年生のとき試合で先輩のユニフォームを借りたことがあるのだがその番号が7番だったのだ。それで2年になって背番号をもらう段になって希望したのだと思う。

7番だった先輩はKさんだったはず。後に30歳頃に会社の仲間と飲みに行った徳島・鷹匠町あたりのバーでウッドベースの生演奏をしていた。聞けば趣味でジャズをやっているのだとか。あのときはお互い一目で分かって話をした。あれが30歳のときとしてあれまで15年。あれから17年。

さて中学のときその先輩Kさんから試合前に借りたユニフォームで出場したのは10分ほどだけだった。翌日だったか数学室に集まって顧問の中西先生にユニフォームを返したとき「洗濯したか」と問われた。実は洗濯していなかった。「洗濯してから返さんか。常識ぞ」と。

「だって汗かいてないもん」と思ったか口に出したか。このことでT原が何か言った。きちんと畳んでもなかったのだろう。今から思えば確かに非常識だった。再び持ち帰って母に洗濯してもらったと思う。あれが7番だった。試合のことよりこんな内容のことばかり覚えている。

クモ (12月15日・水)


部屋にクモがいる。私が向かっているデスクの右奥にあるカーテン。ときどき私のパソコンディスプレイの下を這っていたりもする。大きくないが足を伸ばせば直径2cm強はあるだろう。などと暢気に書けるほど私はクモに慣れた。元々この世の中で最も嫌いなものだったのに。

そもそも私がクモを嫌いになったのは小学校3〜4年の頃に庭で見た巨大なクモに驚いたからだと思う。実家の駐車場横の戸袋にいた。感覚的には足を伸ばせば15cmはあったと思っているが子供のときの感覚なので本当のことは分からない。それでも大きなクモに気づいてギョッとした。

次に小学校高学年。部屋で机に向かっていて気配を感じて横を見たら10cmの距離のところにクモがいた。天井からぶら下がっていた。小さなクモだったが驚いたことを今も覚えている。極めつけが中学のとき無線部の合宿で先輩のK戸さんが藁で作ったクモで私を驚かしたこと。

ところが今やクモがいても平気になった。ベランダに出れば10匹ぐらいが巣を張っている。草刈りをしていたら黒と黄の縞模様の大きなクモと接触することもある。あまりに日常の風景になって気にならなくなったのか歳を取って鈍感になったのか。だとしてもそれはそれで悪くない。

義母のマンションと新しいテレビ (12月14日・火)


明日から寒くなると天気予報が言う。まさか雪は降らないだろうが念のために用を済ませておこうと夕方になって徳島市に行った。15日付の銀行振込1件。会社名義のインターネットバンキングは三菱東京UFJの場合だと月2,100円も掛かる。それをケチっているから仕方がない。

一方で個人口座からはインターネットバンキングで昨夜1件振り込んだ。三菱東京UFJ銀行の異なる支店間だったが手数料が0円。義母のマンションの契約更新料。前回の更新は出向いたが今回は郵送。家賃が3,000円下がった。高齢者の1人暮らしなのに歓迎してくれている大家さんに感謝。

その義母のマンションに今日液晶テレビが配達された。シャープの32インチだったはず。前のテレビは数年前に買ったばかりのブラウン管だが何せ重い。テレビの向きを頻繁に変えていたからテレビ台の足が壊れていて私が応急措置をしたのが既に1年前。新しいテレビ台も一緒に買った。

事務所のテレビも買い換えたが皆に言われたように40インチには1日で慣れた。BSデジタルも見られるようになったがだからといってテレビを見る時間が増えるわけでもない。唯一テレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」が1時間遅れで見られるようになったことだけ喜んでいるところ。

阿ツイ会議とUstreamと宴会と (12月13日・月)


土曜は16時過ぎに上勝町くるくるハウス。第十堰住民投票の会で事務局長を務めていた現・徳島市会議員の村上さんが主催する「阿ツイ会議」上勝版に参加した。普段はたこ焼き屋台の駐車場などで語り合っているらしい。前回Ustream配信されていてその中で提案されていた上勝開催。

その前回会議は私も見ていたから参加しないわけにもいかない。16時過ぎに行って17時半頃から飲み始め食べ始め。21時半頃に町長が来て急きょUstream配信を開始。村上さんのiPhoneを使って。村上市議と町長の対談。ほとんど町長が話をしていたけど。

一方くるくるハウスに出かける前の土曜夕方。「いろどり」横石社長と高知の方の講演だか対談がUstream配信されようとしていた。事前に技術的なことを相談されていたが私には分からない。PCとカメラとマイクがあればできるのだからまずはやってみたらと答えていた。あっさりできていた様子。

日曜は早朝から妻が仕事で出かけ私は午後から地域の草刈りに参加。そのまま夕方からの宴会にも。ところが私は今年一番の大酔っぱらい。2軒目にも行ったが足がもつれてひっくり返ったり。今日は使い物にならず。夜は当然ビール抜き。しばらく飲まないでおこうと思う。

合唱部 (12月10日・金)


中学のクラブ思い出シリーズ3。私が合唱を始めたのは中学のときだ。中学2年の夏休み前に同じクラスの女子生徒から誘われ夏休みの間だけという約束で参加した。8月下旬にあるNHK全国合唱音楽コンクールに混声合唱として出場するため。

2年1学期の終業式の日。帰ろうと体育館の前を歩いていたK元に一緒にやろうと声を掛けた光景を覚えている。彼は私と同じ高校に進み合唱部の部長となり後に名門・関西学院大学グリークラブで活躍する。彼の奥さんも合唱で知り合ったから私は彼の運命に大いに関わったはず。

さて中学で私は2年と3年の夏休みだけ合唱部にいた。男子はK元のほか今「響」の指揮者をやっているS神と後に同じ高校の合唱部に所属することになるS善とバスケット部だったF井がいたことは覚えているが。チクと呼ばれたT田とかもいたっけ。テナーとベース3人ずつぐらいだったと思う。

顧問は音楽の斎藤先生で発声法は叩き込まれた。指導は結構厳しかったように思う。後に1998年だったか1999年に鳴門市文化会館で行われた何かのイベントに出演したとき再会したとき松茂小学校の校長先生だと仰っていた。1977年と78年の夏休みが私の原点の一つである。

アマチュア無線部 (12月9日・木)


中学の課外クラブはバスケットボール部とアマチュア無線部にいた。無線の方は昼休みやバスケットの練習がない日の放課後に部室に集まって無線交信をやったり友人としゃべっていただけだと思う。ときどき24時間でどれだけの無線局と交信するかを競うコンテストに参加した。

1年か2年の夏休みに阿波市あたりの自然の家で合宿したことがある。多分汽車に乗って。飯盒でご飯を炊いて屋外で食べている写真が残っている。I村とK元とK山。それに先輩のK戸さんとS田さんがいたような。このとき藁で作ったクモを頭に乗せられ私は決定的にクモが嫌いになった。

2年か3年の文化祭で私たちはフォックスハンティングを主催した。狐狩り。これは電波の発信器を校内に隠しておき参加者はFMラジオを使って発信器の隠し場所を探すという遊びだ。本当は指向性のある八木アンテナの向きで発信器を探す遊びだがそこまでやる参加者はいなかったはず。

コンテストでは学校に泊まり込んだときがある。2年の秋だった。ところが高校3年になっていたOBである故JA5MAJが2日目に遊びに来て顧問の山本先生が激怒。受験生は来るなと。誰が呼んだのかと私たちも叱られた。バスケットより無線部の方が記憶に濃い。

バスケットボール部 (12月8日・水)


今は毎週火曜にバスケットボールをやっているが学校でやっていたのは中学のときだけだ。ソフトボールやテニスや卓球などの部もあったのに何故バスケットを選んだのか全く覚えていない。同級生は男子だけで確か10人近くいたような気がする。女子も同じぐらいいた。私の学年は多かった。

夏の大会で3年生は引退するから上級生で覚えているのは1つ上の人だけ。S野さんと黄色のTシャツを着たT田さんだったか。同級生は4番が小松島のA井で5番が佐古のT原で6番がS神。私は7番だったと思う。H野とかメガネを掛けたY原とかSきとかF井とか。

市の大会や県の大会に出ていて市でベスト4になったことがあるはずだが他の成績は全く覚えていない。この辺の記憶はS神に任せる。試合中の光景も断片的に覚えているだけ。先輩の試合の得点係をやったとき相手のパスがバックパスではないかとアピールしたことを覚えているが。

練習は基本的に放課後毎日。体育館の日と運動場の日があったような。教育実習生のメガネを割り肘を3針ぐらい縫う怪我をしたこともある。あのときは血を見て自分が怪我をしていたことを知った。1年のとき手と足の運びを自宅の庭で練習した記憶も。試合より練習のときの記憶が残る。

仕事とバスケットとプレゼント抽選 (12月7日・火)


先週まで「上勝TV」の準備ばかりに関わっていて本業を全て今週に回していた。なのに昨日は眠くならず4時過ぎまで起きていた私。モードを切り替えて仕事をしなくてはならないのだが頭が回らない。何とか夕方から原稿を書き始めた。1,600字。2時間かかって半分強。

午後から妻はご近所のお母さんに誘われてそば打ちに参加。そのまま宴会になり私も誘われ食事だけ。今日はバスケットボールに行くつもりだったのでビールはなし。バスケットの準備に一旦帰宅して原稿に向かい後半を一気に書いた。私の頭には何か刺激が必要だったのだ。

今日のバスケットボールは参加者が5人。ハーフコートの3対2。2人のチームに入ると動き回らないとパスが受けられない。もうヘトヘト。それでも2人のチームだとシュートを打たないと勝てないので遠めからも打って何点か入れ3人のチームだと余裕があるからシュートが打てる。最後は3対3。

帰宅して「上勝TV」のプレゼント抽選。乱数アプリをダウンロードして1,806のコメントの中から選んだ。個別にDMを送ったりツイートしたり。夜になり徳島大学の教授が「上勝TVは徳島に革命を起こすかも知れません」と発言していたことを知る。

上勝TV (12月6日・月)


上勝町の公式Ustream番組「上勝TV」の配信が終わった。手放しで成功とは言えない。というのは始まりが数分遅れた上に途中で配信PCを再起動させて中断したからだ。テスト配信では完璧だったのに今日のPCは機嫌が悪かった。Ustreamではよくあることで想定していた事態ではあるが。

19時頃に来てセッティングしてくれたM君によるとPCがDVカメラのIEEE1394を認識しないらしい。ケーブルを変えたりPCIボードを変えたりしたが20時過ぎに見切ってUSBカメラ3台体制に切り替えた。でもCPUモニターが100%に張り付いていた。それを解決しようとM君が奮闘したが21時。

配信は開始したが町長のビデオはCPUの許容量を超えていた。やむなく再起動。その間もタイムラインはトラブルを楽しむメッセージで溢れている。109U以来の仲間に感謝。100人を超えたら凄いと思っていた視聴者は開始直後に130人。後半は200人前後。ピークは220人だったらしい。

ともかくトラブルを面白がってタイムラインを盛り上げてくれた仲間である視聴者に感謝。109Uの実績で司会を任せたイマジンとルパンの臨機応変な対応にも感謝。何より凄いPRになったと言ってくれた横石社長に感謝。そしてギリギリで配信をやり遂げてくれた技術担当のM君に感謝する。

人脈のレイヤー (12月5日・日)


徳島に帰ってきてもうすぐ2年。ツイッターを始めたこともあり徳島での新しい知人が多くできた。そんな中で思うのが徳島においては人脈のレイヤーが1層しかないことだ。例えば東京では高校時代の友人と仕事相手とが重なることはまずないが徳島ではほとんどの人が知人の知人だったりする。

高校の友人と大学の友人と仕事相手と元同僚と現同僚といった人間関係において私はそれぞれのグループに属しているわけだが東京で複数のグループにまたがる共通する知人は極めて少数だ。元同僚とメディア関係の何人かが共通の知人としているに過ぎなかった。

ところが徳島では高校時代の友人の友人が仕事相手だったりする。元同僚と一緒に違う仕事をすることもある。「響」の仲間の同僚と仕事で関わっていたり元同僚と「響」の仲間が一緒に仕事をしていたり。趣味の仲間とツイッターで知り合った友人が同じ会社に勤めていたり。

歳が近ければ高校を聞くだけで共通の知人がすぐに見つかる。それが面白さであり若いときは息苦しさでもあった。でも今は仕事をする上で信頼関係をベースにできるとも考えられる。人脈のレイヤーが一層しかない徳島。そんな私の徳島人脈で仕事をしているのは妻だったりするのだが。

記事と甥の誕生とコーラスと視察の若者 (12月4日・土)


遅く起きると事務所に新聞が置いてある。社会面に上勝TVの記事が出ていた。大きな扱いでびびる。ただし意外なことに記事に間違いはなく優秀な記者さんに感謝。新聞に載っているらしいと地元のY氏が電話をくれた。ツイッターへの返信はジョシコーラスの練習が終わってから。

一方で弟からメールが来て彼の子供が午前3時過ぎに誕生したことを知る。彼の再婚相手に息子がいたがこれで私は名実ともに伯父になった。母は電話してきて初孫の顔が亡父に似ていると言う。そう言われれば見れなくもないが初孫に母も喜んでいる様子。まずはめでたい。

夜はジョシコーラスのクリスマスライブに指揮者として参加。と言っても私は単にリズムを刻むだけ。それだけでも指揮者がいると違うことは私も実感したことであり。ただし妻は同じ時刻に仕事が入り町内にいるもののコンサートには不参加。何とか3曲歌い終えた。

そのクリスマスライブにも来ていた東京の視察グループと落ち合い我が事務所へ。30歳前後の5人。地元のO君とN氏とS氏に来てもらって地域のことなどの議論。徹夜明け2人の視察の若者5人は23時に帰り残った地元組で今日も宴会。遅れてT氏も来てN氏の奥さんも合流。

コピーライターN氏と「上勝TV」 (12月3日・金)


木曜日。徳島でコピーライターとして活躍する元同僚N氏に会うため夕方妻と2人で彼の事務所に行ってきた。前に会ったのは昨年10月の仲之町。今回は仕事の相談。といっても徳島のデザイナー事情について妻が教えてもらいたいと言うもので。料金相場とか仕事のやり方とか。人物評も少々。

N氏の事務所を出て2人で夕食。住吉のイタリアン。ツイッターでフォローし合っているので行ってみた。ほぼ満席。食事は早々に表に出たら豪雨。とりあえず移動して西新浜のマルナカの書店で手帳を買った。Ustream関連の本も。屋根付き駐車場がありがたい。

21時からUstream番組パーソナリティと打ち合わせ。簡単な台本と直近の動きについて。と言っても彼らとはツイッターやクローズドな会議室で日常的に連絡している。話の後半は来年の徳島市での活動についてなど。それぞれの人脈や技術など得意分野を活かす夢のある話。

さて準備を進めてきたUstream番組は「上勝TV」として第1回を12月6日(月)21:00〜22:00で配信する。Webを制作してくれたのは徳島Ustreamムーブメントの始まりに位置する「109U」のボスことgraphisさん。私はツイッターアカウント「@KamikatsuTV」の中の人をやっている。

Ustreamの機材 (12月2日・木)


火曜に行ったUstreamの配信実験は用意したメニューを全てこなして何とか配信できそうではある。あとは回線の問題が発生したときドコモ回線に切り替えるまでのタイムラグがあるぐらいか。もちろん不安定なUstreamである。サーバーの問題もあるし致命的ではない回線の問題も起こりうる。

それでも私たちはベストは体制を組んだつもりだ。回線のバックアップとしてドコモWi-Fiルータを用意したこともそうだがM君のアドバイスに従い「109U」の教訓を生かした。Ustreamは送信と受信に1秒から5秒ぐらいのタイムラグが起こる。最大20秒遅れることも経験している。

その対策として配信側の画面をパーソナリティが見られるようにした。DVI出力をDsub15ピンにM君のプラグを使って変換して私が日常使っているアナログディスプレイに表示させる。それをパーソナリティにも見えるようにしてさらにタイムラインは新しく買った40インチテレビに表示させる。

つまりモニターはタイムライン用40インチとリアルタイムの確認用22インチ。配信用22インチとプロデューサーがチェックするための17インチと公式アカウント配信用22インチ。合計5台。DVカメラとWebカメラ2台。マイクは予備を含め5個。機材だけは必要にして十分であると思う。

Ustream配信実験 (12月1日・水)


火曜は21時に徳島からM君に来てもらってUstreamの2度目の技術テスト。前回フレームレートが落ちる問題についてWebカメラを繋いだUSBハブがバスパワーだったからかとM君は推測していたが同メーカーのWebカメラ3台で現象が起こることを確認してくれていた。デバイスドライバの競合だ。

そうであっても念のためセルフパワーのUSBハブを新たに用意。さらにUSBの負荷を下げるためにメインカメラは古いキヤノンのDVカメラを使う。今のムービーカメラはUSB2.0対応だが古い機種はIEEE1394端子がある。それでPCと繋ぐ。当初はIEEE1394をPCが認識せず利用を諦めていた。

ところが昨日M君が設定を見つけてくれた。オートパワーオフだけが邪魔。一方で数々の著名Ustream配信を手がける「そらのさん」も使っている古いソニー製DVカメラをM君が手に入れていてそれを使ってみたが今度は謎の画面揺れが発生。結局キヤノンに戻した。

23時を回ってマイクテストと告知を兼ねて試験的に配信を開始。私とT氏とN氏がマイクを付け妻がタイムラインを担当。M君がチェック。チャット画面も動きがいいしツイッターとの連動も大丈夫。最後に光回線がダメなときを想定してドコモのモバイルWi-Fiルータを使って配信実験。これも成功。


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© 2010 Takashi INAGAKI