2006年7月

呼吸 (7月31日・月)


ダイビングでは鉛を通したベルトを腰に巻き重りにする。 空気タンクがスチールかアルミかで異なるが一般的に男性だと3kg前後が多いようだ。 私が講習で初めて潜るときインストラクターは私に必要なウェイトを多分5kgと見積もったが全く沈まず一旦浜に上がって7kgに増やした。

深く潜るとウェットスーツが圧縮されたりして重りの効果が効き過ぎてくる。 そこでタンクとホースで接続されたジャケットに空気を送り込み浮力にする。 その上で肺の空気量で浮き沈みが微調整される。 いずれにしてもスチールタンクでウェイト7kgは重すぎるらしい。

要は私の肺に空気が入りすぎているのである。 肺の空気を吐ききっていないわけだ。 息が浅いとも言える。浅い息を速くせわしなくしているというイメージだろう。 講習ではタンクの空気の消費量が速いとも言われたしサイパンではガイドから海中で息を2倍ゆっくりと指示された。

緊張感から浅く速い息になっていたのかも知れない。 でも本当に緊張感からなのだろうか。 精神的な健康のため深くゆっくりした呼吸をしようと新聞などでよく目にするが実は私は普段から息が浅いのではないだろうか。 そう思ってゆっくり深い腹式呼吸を意識するようになった。

ダイビング講習での重りはスチールタンクで7kgから6kgそして5kgと減った。 アルミ10lタンクで7kgから8kg。サイパンのアルミ11lタンクで5kgから6kg。 多分ウェイトはもっと軽くできると思う。 ダイビングによって呼吸の弱点を発見したわけでしばらく意識しておこうと思う。

お墓の写真 (7月30日・日)


父は7人兄弟の2番目でお兄さんが本家を継いでいる。 本家には私の従兄弟が男2人。 うち弟が私と同じ歳で一部上場企業に勤め今はシンガポールにある子会社のCFO。 長男は私の2つ上で本家にいる。

本家の長男とは父の葬儀のとき話をしたのが30年ぶりで昨秋上京したとき新宿で会った。 それ以来ときどき携帯メールを送ってくれる。 従兄弟の誰それが嫁と遊びに来たと言っては写真付きメールが届く。

今日も携帯メールが届いた。 祖父母の命日が近づいたが帰省もできないだろうからと先祖のお墓の写真付き。 これに手を合わせて御利益があるのか分からないがともかく手を合わせてみた。

墓であろうと仏壇であろうと場所は関係ないというのが妻が言う説だ。 故人を思い出してあげればいいのだと。 その説に従えば墓というのは故人を思い出すための心理装置なのかも知れない。

我が家のリビングには妻のお父さんと私の父の写真を飾っている。 私の祖父母の写真はないが母方の祖父を思い出す麒麟の置物も。 ここでときどき線香を焚いて手を合わせる。

今この日記を書きながら思い出してリビングの写真に手を合わせてきた。 その段で言うと携帯メールのお墓の写真でも心理装置としては十分かも知れない。 お盆に帰省はしないがここで思い出すことにする。

情報遮断 (7月29日・土)


今回のサイパンではホテルの部屋でテレビを付けなかった。 インターネット接続はしたが既に書いたとおり部屋でやるわけではないので落ち着いてニュースなど見ることもなかった。 図らずもそんな状況だったわけだが4日間ニュースを見なくても何も困らなかった。

ただ1度だけ最終日にバスを待つ間の1時間ほどホテルのカフェでWebを見ていた。 ヤフーTopicsほか一通り新聞社のサイトを見て回ったが興味を持つニュースは何もなかった。 そのカフェには1日遅れの朝日新聞もあって読んでみたが日本でSPAを読むほどに5分で閉じた。

海外にいるからだろうか。日本のニュースに全く興味が持てない。 いつもなら新聞はもちろんPC系やZAKZAK(夕刊フジ)のWebニュースまで目を通しているのに。 4日間ならニュースから隔離されても何も気にならなかったし困らなかった。

そんなものかも知れないなと思う。 結局どうでもいい下らないニュースに振り回されているということだ。 特に記者クラブのおかげで新聞もテレビも1日のニュースは何を見てもほとんど同じ状況だし。 週末朝にやっているようなニュースショウを見れば事足りるのかも知れない。

日本の新聞テレビの画一性を改めて思う。 スクープだとか独自性もあることにはあるが井の中の蛙の競争なんだと思う。 日本では新聞も読むしテレビも見るがそれは惰性だと自覚する。 情報を遮断して自分の頭で考えることの方が大事だと思う。 考えるより感じることか。

『五郎治殿御始末』 (7月28日・金)


妻が買って読んでいた浅田次郎の短編小説集『五郎治殿御始末』(中公文庫)を読んだ。 明治維新で失職した幕府の役人が生き方にこだわり御一新に馴染めないという物語。 あるいは新政府に雇われながらわだかまりを持ち続けているような人物が主人公。 短編集だから一つ一つの物語はあっさり読めるが生き方を考えさせられる小説である。

妻は浅田次郎が好きで何冊も繰り返し読んでいる。 私は『蒼穹の昴』だけを読んだことがある。 清朝末期に科挙試験に合格した者と出世のために宦官となった架空の人物が主人公の物語である。 確かに泣けるのだが記述が司馬遼太郎ほどにくどい。

中井貴一が主人公の映画『壬生義士伝』をDVDで見たこともある。 南部藩から新選組に加わった主人公の思い出話だがラストシーンがこれまたくどいのである。 妻によると原作はもっとくどいのだそうで。 それを聞いてから実は浅田次郎は敬遠していた。

ところがこの『五郎治殿御始末』は割とあっさりしている。 短編集だからか。通して読めば主題が同じだからくどいとは言えるのだが。 ともかくも武士道と言わないまでも日本人のメンタリティというか精神性はうまく描かれている。 表題の短編を読んでいるバスの中で泣きそうになって慌ててしまった。 浅田次郎の入門にはいいのかも。

ダイブコンピュータ (7月27日・木)


ダイビングの講習1日目にファンダイブの参加者が「ダイコンがない」と探していた。 「それはどんな形のものなんですか?」と聞いたら「腕時計です」と言う。 ダイブコンピュータの略だったのだ。

ダイビング後はダイコンを見ながらログブックに記録を付ける。 ダイコンには潜水開始時間と終了時間や最大水深と平均水深に水温などが記録されている。 私は必須の機材よりもこれが欲しくなった。

ダイビングはタンク中の窒素を高圧の中で吸うことで病気になる危険がある。 病気にならないために潜水時間と水深をパラメーターにして浮上前に水深5mで何分か停止することや休憩時間が決められている。 これらを自動的に計算するのが今のダイコンの主要な機能だ。

定価はだいたい7万円から20万円ぐらい。ネット通販でも4万円から15万円。高いのだ。 しかし考えれば潜水時間や水深はガイドに従うのであって自分たちだけでダイビングすることは一生ないと思う。 つまりダイコンの主要機能はほとんど私には無用の長物。

それでダイバーズウォッチで調べると水深や水温を記録するものが見つかった。 定価は4万円から15万円。実売で3万円から8万円。 それでも高いが私にはこちらで十分。 ただし2〜3年で電池交換が必要らしい。しかも電池交換はメーカー修理扱いで6,000円とかかかる。

年に数時間しか使わないものに数万円も払うのか。でも欲しいなぁ。 というわけで物欲の新たなネタを見つけて当分楽しめそうなのである。

サイパン諸々 (7月26日・水)


今日も耳鼻科に行った。だいぶ良くなったようだ。 ダイビング後の血は中耳からでなく鼻血だろうとも言われた。 でも毎度ダイビングの度にすぐ止まるような鼻血が出るのか。 疑問には思うが悪い兆候ではないようなのでヨシとする。 結局は耳抜きさえできればいいということだ。

さてサイパンでは英語が基本だが日本語も相当に通じた。 日本人もずいぶん働いているし片言なら日本語を話す人も多い。 だいたい飲食店のメニューは英語と日本語が併記されていることが多かった。 妻は部屋からフロントに英語で電話したら日本人スタッフに代わられて自分の英語で日本人だとばれたとショックを受けていたが。

飛行時間も3時間。手軽な海外だからだろう小さな子ども連れやお祖母さんも一緒の家族をよく見かけた。 しかし幼稚園児ならサイパンでも伊豆でも同じだろうに。 幼稚園児で海外なんて贅沢だと思うが親の意識は伊豆と同等の気楽さなのかも知れない。

それにしてもインターネット接続環境は悪かった。 毎夜PCを持ち庭の小道を歩いてフロントに行き低速無線LANで繋ぐ。 場所によって不安定でとにかく遅い。 部屋から有線LANで繋げたベトナムではビジネス客も多いのに対してサイパンはリゾートホテルだから仕方ないのだが。

2ヶ月で2度も行った海外は当分なしだがダイビングは今年中にもう1回ぐらいやっておいた方がいいかも知れない。 でないと潜るまでの緊張感というか怖さはなかなか克服できないような気がするのである。

帰国 (7月25日・火)


昨夜は疲れているはずなのにビールを飲みながら25時ぐらいまで起きていて今朝の起床は8時半過ぎ。 特にやることもなく10時頃から買い物に出かけ結局ABCマートでおみやげを買っただけ。 荷物をまとめホテルに預け無料の戦争博物館を見て再び歩いてシーフードを食べホテルに戻ってコーヒーを飲みながらインターネット。

14:15ホテル集合で16:50発のノースウェスト。日本とは1時間の時差があって飛行時間約3時間で成田着は19時頃。 耳の具合は行きの飛行機ほどセンシティブでなくバキバキ音はせず数度の耳抜きで済んだ。 まだ自分の声はこもっているが回復基調だと思う。 さてK氏らとは成田で別れ20:15発リムジンバス。自宅には22時前に到着。

帰宅したらダイビングのライセンスを証明するCカードが届いていた。 つらい講習と中耳炎になりながらCカードを持つに至りサイパン旅行まで敢行したのは全て大手紙デスクK氏のおかげ。 一方K氏にしても婚約者をダイバーにしてサイパン旅行に行くため同じく初心者の私を巻き込んだわけでお互い様かも。

妻にしてみても昔楽しんだダイビングを体験ダイビング以外でやる機会を作れたわけで良かったのだろう。 伊豆でトラウマになりそうなパニックを起こしたもののダイビングをやる以上いつかは超えるべき壁だったと思えばいい。 歳相応に怖さも知ったと考えれば無謀な行為を回避する強い動機にもなっただろう。それも含めてK氏には感謝。

ともかく帰国して悲しいかな既にもう日常生活に戻ったのである。

ボートダイビング (7月24日・月)


昨日と同じ手順で今日もボートダイビング。 昨夜は右の鼻が詰まっていたので気にはなったが難なくこなせた。 2本のダイブ後は右の鼻から血が出るが大したことはない。 無事2日間で4本のダイブを中耳炎の中で終了させることができた。

ダイビングの方は昨日は晴れのち雨で海中もサイパンにしては透明度がもう一つとのことだった。 今日は曇ときどき雨のち快晴で海中の透明度は良かった。 今日の1本目の直前にはイルカを間近に見ることもできた。 魚に特に興味はないがまさに南の島の海の中。

魚はともかく泳ぐ姿勢と呼吸に気を付け途中からは前方回転後方回転横回転などして遊べた。 妻も今日はすっかりリラックスして何の問題もなかった。 そして潜ってしまえば泳ぎも姿勢も一番うまい。 12時前にショップに戻りログを付け解散。

午後はホテル前のカフェで昼食を取りホテルのビーチに出てシュノーケリング。 超遠浅で50m歩いてようやく腰の深さの辺りで海底の魚探し。結構いるもの。 少しビーチで休んで次はプール。妻はガシガシ泳ぐ。 最後はプールサイドで卓球。意外に楽しめた。

夕食はK氏らと合流してダイビングショップお奨めのレストラン747。3分の距離を車での送迎付。 夕食後はそのまま全身マッサージへ。 そんなわけでサイパン最後の夜。 明日はダイビングなし。早起きの必要もないので集合時間までのんびりするつもり。

ボートダイビング (7月23日・日)


朝7:20。ホテルに車が来て一旦ショップで諸々の準備。 さらに車でビーチに行きタンクのセッティングやウェットスーツを着込んで小型のボートに乗り沖合へ。 船に乗ったのは同じショップの他のお客さんら合計7人とガイドと船長ら約10人。 今回はあまり緊張せず。

ボートなのでお尻から後ろ向きにドボンと海に入りロープを伝って海底に降りる。 私は耳抜きに神経を集中しゆっくりゆっくり。ところが海底に降りたら妻がいない。 機材も背負っていたのに入る直前にキャンセルしたらしい。そんなわけで私たち3人で1本目。

耳抜きには注意したつもりだがボートに上がると鼻血が出ていた。右からだけ。 潜行のとき内耳の気圧が体外に比べ相対的に下がって血が滲み出し浮上の際には逆に内耳の気圧が相対的に高くなるから血が体外に出たのだと思う。 痛みはないから構わず2本目も。耳抜きに神経質な私は最後にドボン。

今度は妻も一緒。 1本目の間に妻は海面をシュノーケリングで泳ぎながら海中の私たちを上から見ていたんだとか。 それで落ち着いたらしい。潜ってしまえば妻が一番うまい。 ちなみに2本目後の鼻血は1本目より少なかった。 12時頃ホテルに戻って2人で昼食を取りビールを飲んだら寝てしまって夕方。

夜は新婚前のK氏と一緒でお邪魔虫。 サイパンでのダイビングは20回ぐらいというK氏と「楽園」という韓国料理の店で焼肉を食べた。 K氏ののろけ話を取材しメモも。行きはお店の車で帰りは徒歩。そんなサイパン2日目だった。

サイパン (7月22日・土)


サイパンの夕暮れ時ハイアットのプライベートビーチ サイパンの夜である。成田でKさんと婚約者のTさんと会って約4時間。 日本より1時間進んだ現地に夕方前に到着。 ビーチ沿いの高級ホテルながらインターネット接続環境は悪い。 部屋からダイアルアップでつなごうとしたがPC側の原因なのかうまくいかず断念。 フロント周辺の無線LANでつないでいる。 いちいち部屋からパソコンを持ち出さないといけない。 もっともビーチリゾートにPCを持ち込む方がどうかしているのだが。

中耳炎の具合は特に改善したわけでもなく悪くなったわけでもない。 飛行機の特に着陸時に痛みがあると医者は言い痛み止めももらってきていたが使わなかった。 必死に耳抜きをやって圧力差が発生しないように努力した。 離陸も着陸も30分の間を耳抜きの連続。耳がバキバキ音を立てるが痛くはならなかった。

夕方インターネット接続設定が一段落してホテル内のビーチを散歩。 表に出てビールとミネラルウォーターを買い込んで夕食。 K氏の部屋にメッセージを残していたらほどなく合流して一緒にイタリアン。 夜はビールを持ってビーチに出て星空を眺める。

初めて来たサイパンは確かに米国である。 がお店の看板は英語と日本語と韓国語が目立つ。 南国には違いないがベトナムに比べれば何にしても快適に感じる。 何せバイクがいない。信号があり車はそれに従っている。 そんなわけで明日は早速ダイビング。耳は大丈夫かなぁ。

中耳炎 (7月21日・金)


実は明日からダイビングをするためにサイパンに行く。 そのために先週講習に行っていたわけ。 ところが耳が変だと思ったら中耳炎になっていた。 水曜日に勤務先その2の近所の耳鼻科に行って今日も行った。 潜るなとは言わないが安全の保証はしないと医者には言われた。

中耳炎の原理はこうだ。 鼓膜の内側には空気が入った小部屋があって鼻との間の管がふさがっている。 このまま潜ると水圧で鼓膜が内側に押し込められ最悪破れる。 だから内側の空気圧が水圧に見合うよう管を開いて空気を足してやらないといけない。 それが耳抜きだが私はこれがうまくできなかったか強くやりすぎたのだと思う。

痛くはない。外の音が小さくなっているかも知れないが気にならない。 それより自分の声がこもって変。 鼓膜が炎症を起こしているらしい。 弱っている状態で強い圧が加わると酷くなったり破れたりすると医者には脅されている。 事実なんだけど。

今回のツアーはそもそも日記に書いた6月21日の飲み会が始まりなのだ。 ここで婚約したK氏にサイパンでのダイビングに誘われたのが発端。 そういう意味ではダイビングも目的だがK氏の婚約者と会うのも目的か。 妻と2人で水辺でチャプチャプ遊ぶだけでも最悪いいだろう。

そんなわけで昨日はマスクとシュノーケルとブーツとグローブを妻と買ってきた。 自分のマスクを使うことで水が入る恐怖が少しでも軽くなればと思い。 妻もダイビングの怖さを知ったようだしK氏の婚約者は私と同じ初心者だから自分のペースで安全にやろうと思う。

『世田谷一家殺人事件 侵入者たちの告白』 (7月20日・木)


妻が買ってきていた話題の書である。 齊藤寅『世田谷一家殺人事件―侵入者たちの告白』(草思社)。 2000年12月30日に起きた世田谷一家4人惨殺事件の犯人を追いかけたノンフィクション。 あの事件は当時住んでいたマンションから徒歩20分で行けるほどの近所で我が家にも警察官が何度か聞き込みに来た。

まだ逮捕されていないが犯人は本書によると韓国人と中国人である。 本書は犯人と面識があり犯行の一部始終を直接聞いた人物への取材から得た情報と周辺取材の内容で構成されたもの。 犯行がどのように行われたか侵入後の行動から犯行後まで微細に記述されている。 あまりにリアルで供述調書があるかのような錯覚を覚える。

大分や大阪での惨殺事件も追いながら韓国人と中国人による「クリミナル・グループ」の現状レポートの側面も持つ。 ただ冗長である。事件を追う刑事たちとの会話なども小説風に再現されているが臨場感があまりない。 ドラマティックな構成を目指したようだが逆にもったいぶった言い回しが多くて辟易する。

読み物としての質の低さは信憑性さえ疑わせるのが残念だ。 それでもエッセンスだけを取り上げれば現代社会への警告としてはインパクト十分である。 犯行の底流には豊かで脳天気に見える日本人への反感があるという。 アジア各国からの留学生がグループに参加し金のためだけに平気で惨殺する時代であることはよく分かる。

ダイビングで考える精神と身体 (7月19日・水)


ダイビング実習をして強く思ったのは精神と身体は表裏一体だということ。 私は実習中に2度パニックに近い状態になった。 一つ目はマスクに水が入ることへの恐怖。 息が浅くなり肺に残った空気が浮力を作り潜行できない状態になった。 もう一つはジャケットの脱着を海上でやったとき顔を沈めるのが怖くて「もう一度」と言われたとき。

どちらも勝手に勘違いしているのである。思い込みと言ってもいい。 マスクに水が入ると死ぬかも知れないとか顔を海に浸けると息ができないとか。 レギュレーターからタンクの空気を吸っているからそんなことはないしマスクの水は簡単にクリアできるのである。

それなのに怖いという思い込みだけでパニックを起こす。 妻は過呼吸になり緊急浮上し私は空気を出し切れず沈めなかったわけで。 マスクの水抜きは海底で何度も繰り返し練習させられた。それで恐怖が薄れた。 ジャケットの脱着は顔を沈めてもいいと思ったとたん楽になった。海底でなら問題なくできた。

特に恐怖や焦りによって呼吸が浅くなるとダイビングは直接影響を受ける。 肺の空気の容量で浮き沈みを調整するので息が浅くなると体は勝手に浮く。 これに対抗するためフィンで泳ぐと体力を使う。 息が荒くなればますます焦り呼吸が浅くなる悪循環。

平常心や深くゆっくりした呼吸が何より大切なのだ。 呼吸が安定すれば精神が落ち着き体が安定する。 昨年6月28日に書いたことを思い出した。 どんなときでも呼吸によって平常心を保てる人がプロなのだ。 ダイビング実習の最大の収穫はこのことを実感したことかも知れない。

ダイビング実習 3 (7月18日・火)


ダイビング実習2日目の夜は真鶴駅前の民宿に泊まった。 昭和初期からあるような古い旅館。 宿泊客は私たちともう1人だけ。 料理は美味しく通り抜ける風が気持ちよかったが蚊が多い。 21時に寝たが蚊のせいもあって途中2時間強起きだしたし眠りが浅い。

月曜日は5時半に目が覚め7時前に迎えが来て熱海発7時半発の船に乗り初島。 港から徒歩2分ほどのダイビングセンターにグループ毎にダイバーが100人近い。 ここは海に入るのは楽。 ところが潜行すると重りが足りず浮いてしまい焦ってしまった。 妻が緊急上したのはこの後。

妻が陸に戻って私はさらに深いところに行き浮かなくなって落ち着いた。 海底に膝立ちになりマスクを外し再び付ける練習。 ちょっと戸惑ったが落ち着いてクリア。 あとは魚を見ながらゆっくり。 透明度が数ヶ月ぶりに悪いというがそこそこ魚は見える。

ともあれ3連休最後で渋滞の東名を熱海から2時間半で帰ってきた。 一応これで講習は終わりダイバーになれた様子。 あとは筆記試験の用紙を出さなければならないが。 もう一つダイビング中の耳抜きがうまくいかなかったようで耳が詰まったようになっているのが心配ながら。

ダイビング実習 2 (7月17日・月)


日曜日は再び真鶴へ。 今度はファンダイブに参加する妻も一緒。 実習1本目はタンクを付けたジャケットを海上で脱ぎ再び着る訓練。 浮力のため空気を入れたジャケットは浮くが重りを腰に巻いた私は沈む。 悪戦苦闘の末できたと思ったらケーブルを袖に通してしまいやり直し。

これで息が上がり焦り恐怖がこみ上げ「もうできない」とパニック状態。 海上のタイヤチューブに捕まろうとしたらインストラクターが「来るな」というサイン。 それでももう限界で泣きを入れて休憩。しばらく海上で上を向き浮いて休んでから息を整え再トライ。

「レギュレーター(空気供給口)を咥えているから沈んでも息はできるでしょ」と言われたら納得して落ち着けた。 沈んでも大丈夫なのに浮くことに必死だったのだ。 次は海底に降りて同じ作業。 今度は浮かないように息をしっかり吐くことを意識しゆっくりやったら簡単にできた。

2本目は空気切れに備え別の人の空気をもらう訓練。ジャケット脱着に比べれば超簡単。 合間にマスクに水を入れクリアする練習数度。あとは海中を浮力を使ってゆっくり泳ぐ。 実はファンダイブの妻の方が大変だったのだがその内容は本人の日記に譲る。

また将来の自分への教訓として3日目の内容も書くが明日にする。 ともかく私にとって地獄の連休は終わった。 精神と身体がいかにリンクしているかが如実に表れるのがダイビングだと知った。 この教訓もいずれ書こうと思う。

ダイビング実習 (7月15日・土)


朝4時20分に目が覚め5時半に家を出た。 近所でピックアップしてもらい真鶴まで1時間強。 実は一人でダイビングの実習に行ってきた。

そもそも徳島時代に知り合った新聞記者K氏に10年以上前から誘われていた。が当時は特に興味がなくてパス。 その後に結婚したら妻がダイバーだったわけで2000年のプーケット旅行で体験ダイビングに参加したのが初めての海の中。

妻は精神の健康のためには海外旅行とダイビングだと言っていて前から私を引き込みたいと思っていたようで。 今回はK氏の婚約者もライセンスを取るから一緒にやろうとK氏から何度目かのお誘いを受け酔った勢いもあって「やる」と言ってしまった次第。

ともあれ今日は機材の扱い方から始まりシュノーケルでのマスクの扱いや泳ぎ方諸々。 だけどビーチの岩場をまともに歩けず海中でフィンを履くのに3分がかり。 以前の体験ダイビングでマスクの中に水が入りパニックになったことがあり今日は怖さが先に立つ。

タンクを背負ったら今度は体が沈まない ウェイトを追加するためビーチから上がったら息が上がってもう止めようと思ったほど。 それ以降は少し落ち着いて海底で空気供給口をわざと放し腕で探す練習を5回強。 同じく海底でマスクにわざと水を入れそれを抜く練習は10回近く。

初めてのことに慣れるのが講習の目的だからこんなものなんだろうけど。 妻に言わせれば講習が一番辛いらしいし。 これが後2日も続く。 もうヘトヘトなんですけど。 (明日は泊まりなので日記はお休みします。)

メディアの姿勢 (7月14日・金)


トヨタが欠陥を放置していたとして担当部長らが熊本県警に摘発された。 水曜日夜のニュースは警察発表に基づく事実だけを淡々と述べた。論評はない。 これはスクープの後追い報道だったのか。

そうだとしてもバランスが悪いと思う。 なぜトヨタは事実報道がされれば終わりなのか。 独自取材もなければ解説もない。警察発表と当事者たちの形式的なコメントだけ。

警察は大きく報道されて満足なのか。続報がないのは地方県警の扱いだからか。 トヨタ広報は全力をあげて仕事をしているだろう。だから報道がコントロールされているのだと見ることはできる。 メディアの方は警察情報以上のことに興味がないように見える。相手が大広告主だから遠慮しているのだろうか。

一方で今も報道が続く通称・村上ファンド代表の逮捕の方は諸々の情報を見ると何が違法だったのか分からない。 違法性が希薄だから東京地検は捜査情報を小出しにしているようにも見える。 だからダラダラとリーク情報が報道され続け彼は悪いことをしたのだと我々は思い込まされる。

メディア報道とは企業発表を転載すること。 そうなっているとしか思えない報道が多すぎる。 「企業」を「警察」や「検察」に置き換えてもいい。政府の発表でもナカタの発表でも。 報道は恣意的にコントロールされた情報だという自覚を私たちは持つべき。 新聞やテレビを信じてはいけないと最近よくそう思う。

『ヤバいぜっ!デジタル日本』 (7月13日・木)


勤務先その2のボスがこの本を引用していたので読んでみた。 高城剛『ヤバいぜっ!デジタル日本―ハイブリッド・スタイルのススメ』(集英社新書)。 ここの「ヤバい」はクールの意味。 タイトルから想像できる通り軽く読める。が意外に面白い。

著作権を創作者の自由にさせろと著者は主張する。 ガチガチに守る方向は間違いだと言う。 とは言えデジタル放送のコピーワンスのような著作権体制を批判しているのであって決めるのは創作者の自由だというスタンス。 特に過激なコピーレフトではなく割と真っ当な意見だと思う。

同時に国がコンテンツを買い取って巨大なアーカイブを作り開放すべきだとも言う。 そこから生まれるマッシュアップこそが新しいクリエイティビティであって将来の日本が世界をリードすべき文化だと。 根底にあるのは何かを組み合わせたハイブリッドこそがキーという考え方。

ハイブリッド・スタイルという主張はデジタルコンテンツだけが対象ではない。 ケータイの多機能化もハイブリッドだし職業を2つ持つのもハイブリッド。 マルチ・プロフェッショナルなスタイルこそが次代のスキルだという主張である。

ちなみにテレビやPCの情報を遮断し体を鍛えたら体から得られる情報が増え第六感が冴えるという説には賛成。 軽い割に読み応えがあって示唆に富む。 IT産業で将来を予想したい人は読んでみるべきだ。 これも日本人と日本文化の特に将来を考える好著である。

シド・バレット (7月12日・水)


シド・バレットが数日前に亡くなっていることが分かったと産経新聞のWebサイトが報じていた。 シド・バレットはイギリスのプログレッシブ・ロックバンド「ピンク・フロイド」の初期のリーダーである。 1967年にデビューし2枚のアルバムを出した後バンドを脱退した。

LSDで精神に異常を来したというのが定説である。 脱退後はソロ活動で2枚のアルバムを発表しただけ。 私の妻はピンク・フロイドのことを悪魔の音楽と呼ぶがフロイドがイギリスの古城を揺るがすポルターガイストだとするとバレットは静かに見ているだけの地縛霊だ。

サイケデリックとも言われるがクラシックに分類されるところの現代音楽に近く前衛性が高い。 ピンク・フロイドのファンである私はもちろんソロの2枚も含めLPで持っている。 学生時代に繰り返し聴いた。 でも今初めて聴いたとすれば私には理解できないと思う。

ピンク・フロイドの1975年のアルバム「Wish You Were Here(あなたがここにいて欲しい)」の表題曲はシド・バレットを歌ったものだと言われている。 この中の「Shine On You Crazy Diamond(狂ったダイヤモンド)」も。 アルバム「狂気」もモチーフにしていると私は解釈している。

それにしても産経新聞はよく報じたものだと思う。 よほどピンク・フロイドまたはプログレッシブ・ロックを好きな記者がいたのだと思う。 あるいは日本人が知らないだけで実はイギリスでは著名なのか。 我が青春の暗黒に静かに寄り添ってくれた狂気のヒーローに感謝する。

電話サポート (7月11日・火)


仕事で使っているリクルートのFAX同報サービスについて分からないことがあってサポートセンターに電話した。 何年か前にも同じような用件で電話したから2回目か3回目。 いつも思うのだが対応は丁寧で的確。とても気持ちよく話ができる。

電話サポートは大変である。 かつて勤務先で発売したソフトがとんでもない欠陥品で全品回収はもちろん社会問題にまでなったことがある。 ユーザーは不安になり電話をしてくる。 そのときサポートセンターで受け止められないクレームは私の部署に回された。

電話をしてくるユーザーは切実である。 大別すればクレームだろうが私がとった電話の相手にただ文句を言うようなユーザーはおらず本当に困っている様が伝わってきた。 私はほぼ独断で優先的に改良版を送ったような記憶もある。 今思うと公平ではなかったかも知れないが何もしないという選択肢は当時の私にはなかった。

そんなことを思い出したが今日の電話でいいところは対応がとても人間的だったこと。 限られた時間にやれることを最大限やろうという姿勢が伝わってくるし対応が画一的でなく私の個性にあわせたコミュニケーションになっている。 リクルートという会社は凄いなと数年前に思ったが今回もそう感じた。 サービス企業の生命線はサポートだなと思う。

海外アクセス (7月10日・月)


先日のベトナムでのインターネット接続はホテルの付随サービスを利用した。 ADSLらしいのだが各部屋からアクセスするとホテルのメニューが表示され時間単位とか日単位などを選ぶ。 最初のハノイのホテルでは時間単位で2.85ドル。 夜だけ繋いで2晩で5.7ドルだった。

事前に調べたのだが我がAsahiネットはベトナムにアクセスポイントがない。 Asahiネットの海外アクセスポイントは意外に多くない。 結局ホテルからブロードバンドで接続できたから結果オーライだが旅行前は不安になった。

実はまた近く海外に行く予定がある。 友人に誘われて行くのだがインターネットアクセス環境だけを見れば僻地と言っていいところ。 今回も調べたらAsahiネットのアクセスポイントはない。 おまけにホテルにサービスがあるようだが限られた場所での無線だけとのこと。

そんなわけで予備手段としてniftyのアカウントを申請した。 niftyは海外ローミングメニューがあって1分21円とか42円とかでアナログ接続ができる。 ただアカウント取得に時間がかかる。 しかもアナログ回線なんて昨今の迷惑メールを受信するだけで100円ぐらい取られそうだ。

遊びに行ってもメールで仕事をしようとする貧乏根性が悪いとは思う。 遊びに行くのにネット環境がどうなのか気になるのは本末転倒だとも思う。 不幸な時代。というより性格が不幸にしているのだと自覚する。

『サニーサイドアップの仕事術』 (7月9日・日)


サッカーの中田選手の引退表明は大きなニュースになった。 いくらW杯の直後だと言え騒ぎすぎだと私は思うがこの引退発表も戦術が十分練られたのだろうなとも思う。 そんなわけで妻が買ってきていた本を読んだ。 峰如之介『サニーサイドアップの仕事術』(日経BP社)。

サニーサイドアップは中田英寿のマネージメント会社として有名である。 ほか北島康介杉本愛為末大乙武洋匡などがクライアントだがマネージメント会社と言うよりPR会社だ。 昨年あたり流行ったホワイトバンドも日本ではこの会社が仕掛けたことで知られている。

本の内容はPR会社がなぜスポーツ選手のマネージメントを手がけるようになったか。 あるいはnakata.netなどサッカー以外の活動をどのように作り上げていったかが紹介されたビジネス本である。 軽く読めてまずまず面白い。少なくとも広報の仕事のことは分かる。

私の本業も広報であって多かれ少なかれ同じような手法を使ってきた。 だからこの手法は理解できるが一方で例えば中田選手の引退表明が気持ちの発露なのか演出なのかを疑ってしまう。 戦う姿勢が最も高くチームに檄を飛ばし続けたリーダーというイメージに対しても。

スポーツ選手が持つイメージをビジネスに利用することに異議はない。 しかしビジネスに利用するため誇張されたイメージでもって試合におけるプレーを見てはいけない。 マネージメント会社がイメージを作り上げてきたスポーツ選手を見るときは特にそうだ。 スポーツ解説をも裏読みしないといけないと気づかせてくれる本とも言える。

『日本史を読む』 (7月8日・土)


丸谷才一氏と言えば当代きっての批評家である。山崎正和氏は劇作家で最近『柔らかな個人主義の誕生』を読んだ。 そんなわけで丸谷才一・山崎正和『日本史を読む』(中公文庫)。 日本史の各時代ごとの異説新説を紹介した本をネタに新説を深めていくという形式の対談集。 議論が深すぎる嫌いもあるが面白い。

平安時代の宮廷は乱倫文化だそうだ。権威は幼い天皇に任せ権力を法王や摂政が担う。 院政における性的放縦は権力の象徴であり男色も政治的手法だったと証拠を挙げながら時に想像力を用いて説明する。 宮廷は世界史の中で最も早く成立したサロンであって貴族の子供は一部を除いて町に下ることで町衆文化の成立に貢献したとも書く。

あるいは明治の元勲たちを精神的に支えたのは遊女たちだったという異説。 この時代に遊女は今のように差別的な境遇にはなく逆に江戸期の武家の子女がいることもあって教養人であったとも言う。 あるいは一部の芸者が政財界の橋渡しをし要人を焚きつけて政治的な決断や事業を後押ししたのだと。

最後は昭和で『電子立国 日本の自叙伝』を取り上げているのには驚いた。 通産省のプロジェクトに参加した研究者が会社は違っても同士的な繋がりを持つに至ったことを指して幕末の志士と同じだとする。 あるいは会社の方針に反し革新的な成果を出した研究者について強烈な反骨心と同時に強い愛社精神を持つ奇人だとして楠木正成を重ねる。

日本史が好きな人は結構楽しめると思う。 これは一つの日本文化論であり日本人論である。

デジカメ (7月7日・金)


ハノイのホーチミン廟 デジカメLumix FX01はベトナムでも活躍した。 まずジーンズのポケットに入れたままにできる小ささは本当に便利だった。 さらに1日あたり100枚〜120枚ぐらい撮影したが電池は余裕だった。 インジケーターが満タンを示す3から減り2にはなるが1になったことはなかった。 毎晩ホテルで充電すれば1時間ほどで満タンになる。

計5日間。600万画素のデジカメだが全て300万画素で撮影。 データはPCに毎日ホテルで取り込む。 その上でデジカメのメモリーの中から明らかな失敗写真を削除。 そのためもあって実質丸4日のツアー中SDメモリーカードは1GB1枚だけで足りた。 PCが壊れるリスクを考え失敗写真を除く画像はデジカメに残したままだが丸4日分苦労せず残せた。

それより実感したのは広角28mmの威力である。 室内はもちろん屋外でも例えばホーチミン廟の全景を収めるには28mmでないと無理だった。 AEBの設定のし易さも好ポイント。 ただフラッシュ設定だけは同じボタンを押し続けるローテーションだから少しばかり手間取った。 同じ設定でフラッシュの有無だけを変えられれば便利になると思う。

手ぶれ補正効果は今ひとつ分からない。 それでもタイマーの設定が簡単だから手ぶれしそうなときは2秒タイマーで撮影した。 あるいはAEBも手ぶれ防止に利用した。 画質は完璧でないが旅行のスナップとしては十分だろう。 28mmによる構図の自由度は何ものにも換えががたいメリットである。

異文化 (7月6日・木)


ベトナム航空国内線 これまでベトナムのことを書いてきた。 ここまで書けるほど異文化から何かを思う経験は貴重だと改めて思う。 喜びや楽しさだけではなく怒りやイライラや不満も全て含めて海外に行かないと経験しない感情の起伏。 これはとても大切なことのように思う。

つまり毎日の生活はいつの間にかルーティンワークになっている。 それはそれでいいことだと思うが非日常な感情は人間を奮い立たせる効果があるようにも思う。 普段持ち得ない感情の出現は何か人間の眠った能力を呼び覚ましているような気がするのである。

海外旅行のツアープログラムでも刺激はあるだろうが予測の範囲外な事件は後から考えると面白い。 日本にいる限り何をやっても経過も結果も予測できてしまうから予測不能な異文化を求めるのかも知れない。 最終日のホテルでのトラブルは相手も私も予断があった。思い込みで誤解し合っていたのだろう。 そんな反省をするだけでも価値があると思う。

ベトナム人気質にもハノイの建築物にも批判的な印象を持った旅行だったが非日常の刺激は十分に得た。 何せ妻と街角で大声を出してあってけんかをしたのは新鮮だったしチキンレースもまた十分な刺激になったのである。 そういう意味で妻が書いたように私はホーチミンで2日以上自由に滞在するツアーがあればお奨めしたい。

文化 (7月5日・水)


ハノイ郊外のチキンレース タイと比べてベトナムは子供の街で公共マナーもなっていないと書いた。 しかし考えてみれば日本だってガキの街は多いし公共マナーに無頓着なヤツも多い。 ひったくりなら東京でもあるし地下鉄ホームで刺殺される事件もある。 危険な街に行けば日本も十分危険なのだ。

それにベトナム的なチキンレースなら実は私もやったことがある。 今の勤務先その2のボスを高知空港に出迎えるため大歩危小歩危横の国道を飛ばしていた1990年頃。 無理な追い越しで対向車と追い越し車と3台が並列した。 今思い出しても冷や汗が出る。対向車は肝をつぶしたことだろう。

それと妻が書いていたガイドブックの不備。 確かに道路横断の方法は教えられないと分からない。 旧産経支局近くの大きな交差点を渡ろうとしたとき欧米人家族4人が渡れずに戸惑っていたところに出くわした。 私たち2人が家族の両側に立ちペースを指示しながら渡ったが奥さんは今にも走り出しそうなパニック状態で目が恐怖で怯えていた。

『サイゴンから来た妻と娘』の中で奥さんが日本米に馴染めずタイ米を買っていたという話がある。 ところが半年ぐらい経つと力が入らなくなって塞ぎがちになり日本米に戻したら直ったという。 結局のところ国や地域の文化風土に従うことこそが生きる正しい方法なのだと思う。

ベトナムも日本もそれぞれの風土の中で作り上げた文化なのだ。 何が良くて悪いということではない。ただ日本で育った私に合うかどうかということだけだと思う。 ベトナムに1年も住めばむしろ東京の方が怖くて変だと思うかも知れない。そうも思う。

旧サイゴン (7月4日・火)


グエンフエ通り ホーチミンは小さな街だった。 実際に歩いてみて距離感が分かり『サイゴンのいちばん長い日』の世界のリアリティが増した。 産経新聞サイゴン支局からテレックスセンターは角を曲がれば1ブロックだから1分とかからない。 支局から日本大使館は歩いて3分。旧官邸は徒歩5分強。自宅へは歩けば20分だが自転車なら5分で行く。

こういうことは現地に行かないと分からない。 通りの名前は変わったところもあるが通りの存在そのものは30年間同じはず。 サイゴン陥落のとき日本大使館に集まって上階から下を見たら銃を持って警戒している北ベトナムの兵士が見えたという記述の情景がリアルに分かった。

本を読んだときは大きな市街を想像していた。 でも実際に行ってみると東京に当てはめれば丸の内だけで完結している。 徳島なら駅前から紺屋町と県庁の範囲内で全てが収まっている。そんなイメージ。 もちろん今は郊外にも都市化は及んでいるのだろうが車で10分走れば十分郊外だ。 川内か津田みたいな。徳島と同じ規模だと思う。

それにしても近藤紘一氏の著書にははまったと言える。 ノンフィクション好きの私にこの本の存在を教えてくれて現地を見てみようと思うほどの影響を与えてくれた元同僚のyabushoさんに感謝したい。

ベトナムの食事 (7月3日・月)


ハロン湾では船から魚を直接買い付け ガイドブックを見ると生水は飲むなと書いてある。氷も生野菜も危ないらしい。 氷なしと注文しない限り冷たいお茶やジュースには氷が入っている。 気にはしていたが結局は飲んだ。そして別段腹痛になるようなことはなかった。

ベトナム料理は地理的に言えば中華料理に近い。 植民地としてフランス料理の影響も受けたはずで美味しいと思っていた。 同時に辛いものだと思い込んでいたが私が食べたところはどこも辛くなかった。 近藤紘一氏の本によると客は自分で香辛料をバカスカ入れるらしいが観光客が行くような店は地元の人とは違うのかも知れない。 香辛料を置いてあることがなかった。

巨大な体育館の中に小さな店がひしめくホーチミンのベンタイン市場の中の屋台には香辛料があったらしい。 しかしここの屋台では洗い物を洗剤が入ったタライに浸して置き水でゆすぐだけの様子。 とても日本人の衛生感覚が通用しない。屋台で食べる勇気はなかった。

ハロン湾クルーズでは船中で出される魚が足りなかったらしい。 そうすると養殖をしながら水上生活している筏に船を着けて直接魚を調達していた。 一方ハノイで行った市場には魚や野菜に鳥の丸焼きなどを売っていた。 沖縄の市場と同じようなものだ。

美味しさという点では東京歌舞伎座にあるベトナム料理店が最も美味しかった。 特にベトナムの観光客相手の店は今ひとつではないのだろうか。 むしろホーチミンのホテルでとったルームサービスのフォーが量も多く美味しかった。

ベトナムと日本 (7月2日・日)


ハノイの市場 ベトナムの悪い印象ばかり書いているがもちろんいいところもたくさんあった。 ハノイで泊まったニッコーホテルのバーでは優しくはにかんだ表情で控え目な若い女性スタッフに好感を持った。 それよりも日本人の20歳代半ばだろう若い女性スタッフのプロとしての仕事と現地スタッフに威厳を持って接する態度の方に感動したが。

ハノイでは日替わりで3人のガイドと行動した(1人目は女性で3人目は男性のトゥンさん)。 2人目のフィーさんは週末だけのアルバイトだと言う。 日本の経済産業省の外郭団体が開設している現地事務所で働いているらしい。 経産省の招きで日本に留学し幕張と栃木で1年間いたこともあるらしい。 日本とベトナムを結ぶビジネスをしたいと夢を語った。

近藤紘一氏や司馬遼太郎氏の著書から南は働かなくても魚も果物も採れるが北は土地が貧しいと読んでいた。 フィーさんによると北のハノイでは初対面でも食事に誘うがそれは儀礼であって真に受けるとダメの烙印を押されるのだとか。 まるで京都だ。 一方で南のホーチミンでは食事に誘うのは本心からであって真に受けて当然でオモテウラがないのだとか。 こちらは沖縄を想像する。

同じ国でもこれほど風習が違うのだから別の国の文化を知らないとダメだとフィーさんは言う。 日本語は難しいが日本語を勉強するだけではなく日本の文化風習を勉強しないと本当に知ったことにはならないとも言う。 私も興味を持ってフィーさんとは個人的にメールのやりとりを始めたところである。

ベトナムのバイク (7月1日・土)


ホーチミンのバイク ベトナムのバイクのことはさんざん書いた。実はそれでも書き足りない。 110ccという原付に毛が生えたような排気量だからか速度は遅い。 市街では30km/hぐらいしか出していないと思う。郊外でも50km/hがせいぜいだろう。 だから無茶な運転も可能なのかも知れないと思う。

ハノイもホーチミンも信号は少ない。 信号があっても黄色がないから赤になっても数秒間は惰性で突っ込んでくる。 ほとんどの信号がない交差点では双方から突っ込んだバイクの群れがなぜかうまく通り抜けている。 ときどき立ち往生するバイクもあるが1,000台に1台の割合だ。

そんな光景を見ていて実は信号がない方が効率的ではないかと思った。 列を定期的に止めるよりダラダラと行かせた方が実は目的地に早く着けるのではないかと。 どうせ1ブロックごとに交差点を通過するわけだから途中で急加速もせず燃費にもいいように思うわけだ。 しかし例えそうだとしてもバイクだから可能な芸当かも知れない。 車なら双方から突っ込めば身動きできなくなるような気もする。

最終日ホーチミンの大きな交差点角のカフェでお茶を飲んでいた。 バイクの大群が双方から突っ込む様は見ていて飽きない。 でも仮に無秩序な運転の方が目的地への時間が早く燃費が良かったとしても排ガスだけには参ってしまう。 女性の多くはマスクかスカーフを口にしてバイクに乗っている。 110ccと行ってもHONDAならぬ中国製HONGDAもいて私も30分で喉が痛くなった。

改めて私は絶対にベトナムで車もバイクも運転はできないと思う。 問題があったとしても私はまだ日本の秩序をありがたいと思うのである。

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© 2006 Takashi INAGAKI