2012年2月

関西支部50年のあゆみ 2 (2月29日・水)


翌年J社に入社するという理由だけで「日本音響学会関西支部50年のあゆみ」のデータ入力をさせられた私は当時の最新版ワープロソフト「一太郎Ver.3」の機能を最大限使ったと思う。ちなみに今だから白状するが当時の研究室にあった一太郎はどこから入手したか分からないコピーだった。

一太郎の機能は今になって見返してみると何を使ったか想像できる。例えばシンポジウムの演題と発表者の表記。基本は1行に収めるが演題が長いと2行になる。発表者は常に右寄せ。2行に及んだ右寄せは簡単だが1行の中で発表者だけ右寄せにしたのは「改行」を0に設定したのだ。

罫線を使った表は何十ページにも及ぶ。このとき一太郎の弱点は罫線表の中で文が2行になる長さであっても自動的に改行されなかったことだ。2行にしたければ手動で改行を入れる必要があった。この機能制限がなくなったのはVer.4だったかVer.5だったか。

ともかく実作業をした私は10万円ほどのアルバイト料をもらった。全ての作業が終わって打ち上げは京都の東大路御池あたりのロシアンバーで行った。京都大学の先生の馴染みの店でウォッカを飲んでこの先生が一番に酔っぱらっていたのを覚えている。

日本音響学会関西支部50年のあゆみ (2月28日・火)


事務所から自宅にオフィスを移し再び元に戻す過程で書類の整理を少しだけだが行った。忘れていた懐かしいものが出てきたりして作業は大変だが楽しいと言えば楽しい。その中に約130ページの「日本音響学会関西支部50年のあゆみ 1938-1988」というA4版の本があった。

今から25年前。同志社大学工学部電子工学科を公式記録で2年留年した私は音響・計測研究室というゼミに所属していた。ボスは後に学部長になる卜部(うらべ)教授。さらに大谷教授がいて私の指導教官は当時まだ30歳代だったはずの渡辺好章助教授だった。

1987年。渡辺先生がこの「あゆみ」編集委員の1人になったのだろう。その手下の学部生であった私は6月時点でジャストシステムから内定を得ていた。そんな偶然に私は「J社の入社前に一太郎を使えるようになった方がいい」という理由だけでこの本の制作実作業を担当させられたのだ。

資料集めや構成は先生方がされたのだろう。私は手書きの資料を一太郎で入力するだけだったような気がする。大半が活動資料だ。年ごとの役員。学会発表演題と発表者。約130ページのうち少なくとも私は80ページの入力を担当した。一太郎Ver.3の頃。あらゆる機能を駆使した。(続く)

椅子 (2月25日・土)


仕事で使っている椅子を新しく買った。夕方になり妻と買い物ついでに徳島市に行ってニトリで注文してきた。届くのは来週。今座っている椅子は20年前に買ったかもらったものだ。最初の結婚をする前に当時の婚約者に連れられて行ったイベントで当たった家具券で入手したのだと思う。

家具券は10万円分ぐらいだったかも知れない。選んだのは私の机。本棚もその券を使ったような気もする。机も本棚も今なお私が使っている。椅子は同時に手に入れた。でも3年前に壊れ近所のY氏が溶接して直してくれたが座面には穴が空いているし座り心地も悪くなった。

一時期は妻が持っていたテーブルに附属した椅子を使っていたが床を凹ませるのでフロアーマットを敷く必要があった。ところがこれが埃の元。そんなわけで腰を痛くしてまで20年前の椅子を使い続けることもないだろうと新調することにしたわけだ。

ちなみに20年前に入手した机は木製。自宅の書斎用にはいいかも知れないが仕事で使うには狭い。引き出しも固定だから椅子の肘掛けは机の下に潜り込まず選択は限られる。と言いつつ一番ふんぞり返ることができる肘掛け付きの椅子を買った。使いにくいかも知れないという1%の不安。

白神歯科 (2月24日・金)


私は寝ているとき歯ぎしりをするらしい。随分と前からだ。さらに歯を噛みしめて寝ているらしい。歯がすり減ってきていると当時住んでいた世田谷区南烏山の「すずき歯科クリニック」で8年前に指摘された。ちなみにこのときの先生は30歳ぐらいの女性できれいな人だったと思う。

さて歯に被せる柔らかい素材の器具もあるらしく8年前には自分で買って歯形を取ろうとしたが失敗。それっきり忘れていた。ところが先日健康診断を受けたおり歯科検診もあって診てもらったら同じような指摘を受けた。それから気になり始めたのである。

それで先日「響」の練習に早めに行ったとき指揮者にして歯科医のS氏に相談したらいろいろと教えてくれた。今日たまたま近くを通ったので予約もせず寄ってみた。行ってから気づいたがラーメンを食べた直後で歯も磨かず。患者さんも待っていて恐縮しつつレントゲン写真も撮って診察を受け。

S氏の見立てでは予想外に普通だったらしい。奥歯に被せた金属がストッパーになっているのか歯は正常の範囲だと。そんなわけで衛生士さんにクリーニングされただけで治療はなし。前に行ったときも説明が丁寧だったが今日も。患者としてとても信頼できる白神歯科なのである。

土砂災害警戒区域 (2月22日・水)


火曜夜。隣の公民館で土砂災害防止法に係る説明会というものに出席した。どうも法律で決められた説明会らしい。徳島県の担当官が5人。上勝町の中の大字傍示の中のさらに小さな字単位での説明会。住民側は私ら夫婦を含めて10人ぐらいだっただろうか。

崖崩れと土石流と地滑りの3つの現象について各々の土砂災害警戒区域の指定と特別警戒区域の定義の説明から。プロジェクタを使って分かりやすいのだが役所のやることは何にしても堅い。でも説明会の目的は土砂災害の可能性を住民に伝え避難への意識を高めることらしい。

事前に受け取っていた地図を改めて見ると私が住んでいる住宅は4カ所の土砂災害発生地点に直面している。「建物が破壊され、住民に大きな被害が生じるおそれがある区域」である特別警戒区域には幸いにして掛かっていない。警戒区域にしても3カ所は辛うじてセーフ。

でも1カ所の発生可能性がある地点からは土砂が押し寄せる可能性があるようだ。やっぱり雨が続けば2階に逃げるか。目の前の川を土石流が来ると想像していたが意外に小規模だから鉄筋の住宅は大丈夫かも知れないと思ったり。いずれにしても警戒の意識付けにはなったのである。

鳴門第一(鳴門商業)高校 (2月21日・火)


4月に鳴門渦潮高校に統合されるのは鳴門工業高校と鳴門第一高校だ。鳴門第一と聞いても私には馴染みがない。元の鳴門商業である。鳴門工業野球部の甲子園出場に際し「響」が校歌を1999年に録音したことは昨日も書いたが鳴門商業の校歌も録音していたらしい。

その鳴門商業で授業をしたことがある。外部講師を招くカリキュラムだったのだろう。1990年頃か。ソフトウェアの話をするのが目的だったが生徒に興味を持ってもらおうと5インチフロッピーディスクをハサミで切ったり。生徒はともなく大人しかった。終えて校長室で話をした記憶がある。

余談だが鳴門工業は鳴門市立だから地元では「市工(いちこう)」と呼ばれていた。私は徳島市立高校に通っていたとき通学の汽車の中で鳴門のお婆さんに高校名を聞かれて「いちこうです」と答えたら「徳島にも『いちこう』があるんで?鳴門にもあるんでよ」と言われた。

では鳴門第一は何と呼ばれているのだろう。鳴門に「いちこう」が2つ。ややこしい。その2校が統合されてややこしさはなくなった。でも甲子園で「渦潮打線」と言えば伝統ある鳴門高校だが鳴門渦潮高校が甲子園で活躍したらどうなるのだろうというどうでもいいが新たな心配も。

※当時作成した資料が1991年11月23日と25日に作成しているので11月末頃に講演したと思われる(2022年1月28日追記)。

鳴門工業高校 (2月20日・月)


昨日は鳴門渦潮高校の校歌を歌ってきた。鳴門第一高校(元の鳴門商業高校)と鳴門市立鳴門工業高校が統合して4月に誕生する高校だ。私は鳴門で生まれ育ち鳴門商業にも鳴門工業に多少の縁がある。その両校が統合する高校のリファレンスとなる校歌を歌えたことをうれしく思う。

この両校の統合については徳島新聞が連載している。両校の歴史や関わった人たちの思いが垣間見える。今日の書き出しは鳴門工業の校歌だった。「工業立国の使命を帯びて〜」。この校歌は思い出深い。甲子園出場に際し「響」が録音したのだ。1999年。鳴門高校の音楽室だった。

この歌詞の作詞作曲をしたのは初代の校長先生だ。そのご子息は私の中高時代のアマチュア無線仲間にして日経BP社の編集者。私がJ社に入社することを相談した人物でもある。かつて「響」のWebで公開していたページにリンクしておく。この歌詞から1963年開校時の志が伝わってくる。

1973年ベスト4になったとき私は小学校4年生だったが何度も甲子園に応援に行った。そもそも実家は鳴門工業から500mぐらい。小学校の頃は近所の友達と学校の敷地に遊びに行った。カレー粉を拾いに行くと言っていたと思うがあれは何だったんだろう。小学校1〜2年の頃の思い出だ。

着物の日と校歌の録音 (2月19日・日)


上勝着物の日というわけで午後から妻がツイキャスするというので付き添いで出かけた。ふれあいセンターに行ったら着物美女たちがいっぱい。上勝の人だけではなさそう。くるくるハウスにも行って最後は産直市のいっきゅう茶屋。ここでライブが行われるのだ。

演奏をするのは超ご近所のAちゃんがボーカルのバンド「ほーじーず」。上勝町大字傍示が名前の由来だ。私は妻のツイキャス情報をツイッターでリツイートしたり。終わってからよく会う徳島の女性歯科医さんと話をしたら彼女は弟の小中時代の同級生だと。もっと若いと思っていた。

夜は八万コミュニティセンター。「響」のメンバーが15人ぐらい集まっただろうか。4月に誕生する2つの高校の校歌を録音したのである。鳴門第一高校(昔の鳴門商業)と鳴門市立鳴門工業高校が統合する鳴門渦潮高校。それに鴨島商業と阿波農業が統合する吉野川高校。

ピアノ伴奏は鳴門工業の1999年の甲子園用に録音したときの先生らしい。県教委の担当お二人も立ち会い。録音は休団中の団員にして松茂のM氏。録音だから余計な音を立てられなくて難儀しながら無事終了。Facebookに書いたら校歌を録音したのは今回で5校目と6校目だったらしい。

引っ越し2日目 (2月18日・土)


自宅から事務所にデスクを移動させて2日目である。今日は午後になり小松島市にあるホームセンター「コーナン」に行った。本などの収納に使える衣装ケースを買いに行ったのだが意外に高くて諦めた。上勝のA氏に偶然会ってゴミステーションでの段ボールの状況を訊いたりしながら。

衣装ケースは諦めて段ボール箱を使うことにしたのだ。ゴミステーションの段ボールは大きさがまちまちで使えそうなものが運良くあるか分からないし作業を進めたいのでコーナンで買ってきた。2種類。小さい方には読まない本を詰めようと思っていたのだが。

夜になって本格的に作業を開始。でも不要な本は意外に少ない。多分50冊ぐらいを箱に入れて残りは全て本棚へ。ざっと数えて400冊。書類や機器類も運んで自宅と事務所を50往復はしただろう。既に妻の本は別のところに移されていたから本棚には余裕を持って収納することができた。

運ぶ前にチェックもして仕事の資料は重複したものは捨てることにした。2008年の報告書は1冊あれば十分だ。PCソフトのパッケージや使わない機器の箱なども段ボール箱行きだ。2日間で重量比90%は終わった。でも細かな分類や整理を残している。明日中に終わらせたいが。

デスクの引っ越し (2月17日・金)


自宅に引っ越したのは昨年10月22日だった。3LDKのリビングにデスクを移動していたが冬になり寒くなって自宅は大規模な模様替えをした。ベッドを南の部屋から中央の部屋に移動させデスクをリビングから南の部屋へ。それに伴って北の部屋から衣装ケースを中央に動かしたり。

新しい寝室は戸を閉めれば光が入らず安眠には好都合だった。デスクを置いた南の部屋は6畳ほどで石油ファンヒーターで5分で暖まった。すぐ熱くなるから寝室との間を開けて敢えて広くしていたほどだ。ところが1月ほど前からファンヒーターの動かないことが頻発するようになった。

この部屋にはエアコンもあるが真冬の寒さには力不足で1時間経っても暖まらない。一方で妻は事務所で寝るためにベッドを買っていた。でも事務所にベッドは不都合で話し合って結局は元に戻ることになった。妻のベッドは自宅の南に移す。となると私のデスクは事務所に戻らざるを得ず。

そんなわけで今晩になって近所のS氏に手伝ってもらって本棚やデスクなど1人で運べない荷物を移した。その後PCを含めたデスク回りだけを移動。ネットにもあっさり繋がり仕事ができる環境は整った。本などの荷物をどう片付けようかと思案中。この機会に一気にまとめてしまいたいのだ。

健康診断の結果と大腸ポリープ (2月15日・水)


1月に受けた健康診断の結果が返ってきた。2年前に受けた検査で肝臓の機能を表すGOTとGPTとγDTPのいずれもが正常範囲を超えていたから今回はどこまで悪化しているかが焦点だと思っていた。ところがGPTが僅かに超えただけで他は正常範囲内。驚いたというかホッとしたというか。

ただコレステロール値は前回より下がったとはいえHDLとLDLの値が正常範囲より上。血圧も高めらしい。精密検査を要するという診断が出たのが肺。左上部に影があるんだとか。この健康診断を受けたときは喉が痛くて咳が出ていたときだからそれが原因だろう。

J社時代の96年か97年の人間ドックで胸膜癒着とかいう症状が治った跡があると言われたことがある。その後にも1度言われた。東京時代に行っていた鍼灸の先生からは目と心臓が弱いと言われた。私の場合は肝臓ではなく肺か心臓の方に注意が必要なのだろう。

そう言えば98年に大腸ポリープの切除手術を受けた。先日会った同級生の医者H氏に言ったら30歳代でポリープ4つということはポリープができやすい体質だろうと指摘された。癌化するかは分からないが今もあるはずだから検査した方がいいよと。肺よりも肝臓よりもこっちが気になりつつ。

ミニ同窓会 (2月13日・月)


日曜日。チャリティライブを終えて妻と徳島市へ。妻は別件での会食だが私はミニ同窓会。紺屋町の交差点で車を降りて18:50待ち合わせ。昨年は上勝に来てくれたT氏が鎌倉から来たのである。創業したベンチャーを上場させた後に辞めて今はバイオ系ベンチャーのCFOをしている。

同じ中学の同級生で作っているFacebookグループで声を掛けて写真展にも来てくれた1つ下のW内科院長W氏も誘って。駅前の大きな個人病院の副院長H氏とは30年ぶり。最初は4人。T氏はマスクをして現れ訊けば熱があってW氏に診察してもらいインフルエンザの薬を飲んだと。

2時間ほど経って市民病院の乳ガン専門医だというH氏。彼と会ったのは33年ぶりだ。場所をバーに変えてWeb制作会社の美人社長T嬢。さらにN精工社長N氏。この2人とは12月に会った。N氏は社員との宴会を終えて駆けつけてくれた。最後は合計7人で昔話や病院の裏話など。

忘れていたが乳ガン専門医H氏は中学1年のとき同じクラスだった。内科副院長H氏はクラスは違うがバスケット部で一緒だった。古い仲間と会って楽しい飲み会だった。24時前に解散して私はツイッターで話題だったラーメン「堂の浦」。金比羅タクシー本社で5分ほど待って帰宅。38分6,250円。

チャリティライブ (2月12日・日)


地元のライブ。朝9時前に電話があって11時半からリハーサルをすると言う。今になって言われても一人は来られない。結局11時半に3人で行って一旦戻って4人揃って練習を少し。2番目の出番だったが私は絶対に間違いそうになかったところで間違った。3箇所ぐらい失敗。やれやれ。

ライブ出演は全部で6組だったか。会場のくるくるハウスは大きなワンルームといった趣で階段にも人が座り満々席。パンクバンドや上勝在住ながら東京でプロのギタリストとして活動している人や。出演者も観客も半分以上が顔見知りなので和気藹々でアットホームなライブ会場なのである。

福島県飯館村チャリティライブは今回が2回目。NHKが取材に来ており明日13日(月)18時からのローカルニュースで放送されるらしい。飯館村出身で今回のライブを企画したS嬢が主役である。彼女のご両親は放射線量が高い村を離れて住んでいるらしい。お祖母さんは仮設住宅だと。

飯館村の写真を見せてくれる時間もあった。最後に「I love you & I need you ふくしま」を皆で歌ったときS嬢が泣いていてそれを見ていて私も涙(朝日新聞の記事)。それと今回はPAを我が上勝TVの技術統括M君が担当していてそれがよく演奏をサポートしていたと思う。

腰痛と頭痛 (2月10日・金)


1月27日まで1週間開催した写真展で立ちっぱなしだったことが原因だと思う。初日から腰が痛かった。風呂で暖めたり横になったりしたが効果がなく1週間経っても腰痛が治らなかった。ふと前にNHK「試してガッテン」でストレッチが効果的だと見たような記憶が蘇り試したのが先週。

腰の回りだけではなく東京時代のフィットネスクラブでやっていたような全身の筋肉のストレッチ。さらに股割りのような体勢で股関節を伸ばしたりアキレス腱を伸ばしたり。もちろん即効性はない。でもそれから1〜2日後に気づいたときは腰痛が消えていた。意外に効果あるかも知れない。

写真展から痛かった喉は既に書いたように部屋の掃除をして濡れタオルを掛けていたら3日ぐらいで痛みが消えていった。2月5日徳島県合唱祭に「響」で出演したがそのときには何ともなかった。ホッとしたのだが今度は頭痛である。喉の痛みが治まった頃から軽い頭痛がする。

たいてい右側。寝て首の筋を変に伸ばしたのが悪いのか首から頭に掛けて痛むような気がする。あるいは右側の血管に何か問題があるのか。寒さが原因のような気もする。我慢できないほどではなく軽いものなので何かに集中していると気にはならない。一応これも記録しておく。

地元で男声合唱 (2月8日・水)


地元で土曜にある福島県飯館村応援チャリティーライブに出演することになった。近所の仲間F氏が昨年末だったか言ってきて何だかノリで決まってしまった。男声4人のボーカルグループである。急きょ結成したもので歌の経験があるのは合唱をやっている私一人。

曲は最初の提案の際に私が提案した。昨年の「響」定期演奏会で歌ったビリー・ジョエル「The Longest Time」。リードボーカルは原曲CDを聴いて覚えてもらうとして問題はコーラスの3パートだ。1月中旬に電子ピアノを弾いて各パートの音をICレコーダーに録音して送っておいた。

最初の練習は1月27日。F氏の同僚で小松島のS井氏とF氏と3人。次は1月31日にS田氏とF氏。2月1日にF氏とS田氏と私の3人。5日(日)から4人が揃って3日連続。何とか楽譜を見ながら最初から最後まで歌えた。救いはリードボーカルF氏が音程もリズムも安定していること。

私は怪しい音が何カ所も。火曜の練習の最後にICレコーダーに録音したS井氏とF氏に送りS田氏用にはサウンド編集ソフトDigiOnSound5で私が歌を追加して送付。私のパートも自分で音を吹き込み繰り返し聴いている。各パート1人というのは無謀だったかと思いつつ。どうなることか。

上勝TVと「響」 (2月5日・日)


4日(土)は上勝TVの配信だった。18時頃にくるくるハウス。来週あるライブ会場でもあって既に演奏機材が並んでいる。配信テーブルをどうするかスタッフはどこに座るかといったところから準備。機材関係は技術の2人に任せて私はiPhoneでツイキャス。PRも大事な仕事というわけで。

配信直前に演奏の音が来なくなったらしくM君が慌てて対処していたがともかく20:55頃には配信を始めることができた。今回は前回に続きWiwitチャットを使わずUstreamのソーシャルストリームを使った。発言は30秒待たなくてはならないが好意的な意見もあり。

今回は台本には大まかな内容を書いて画像と動画を準備しておいたぐらいで進行はパーソナリティに任せたのだがうまくいったと思う。アシスタント的なM嬢がとても上手く回していたしタイムラインもいつもより読めた。結果として同時視聴の最高が56。総視聴者は200人を超えていたと思う。

5日(日)は徳島県合唱アンサンブルコンテスト。16時集合なのでゆっくりと思いつつ途中マクドナルドでバーガーを買って車内で食べながら。最後から2団体目で観客は少なかったが歌の方はまずまず。金賞とベストハーモニー賞を受賞。帰宅して21:30頃からも歌の練習。

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© 2012 Takashi INAGAKI